はらり、はらりと桜花が散りゆく。
 桜吹雪の中、その様をどこかぼんやりとした気持ちで、男は見上げていた。癖の無い黒い髪や濃紺色の着物にいくつもの花弁がついていても、それが気にならない程に。
 戦場においては鋭利な切れ長の瞳は、今は影を潜めている。鬼神のごとく、傍に近寄るものに与える気迫は欠片も無い。戦争が終わった世の中で、それらは必要無いものとして、ゆるりと流れる時の流れに身を潜めるように薄らいでいた。
 ふと、切れ長の瞳が細められる。
 京にいた頃は日常茶飯事だった光景が、脳裏をよぎる。
 血飛沫を花に例えたら、こんな風景になるのかもしれない。
 感傷に更ける時間などあった筈もなく、今、初めてそんなことを思った。
 風に揺られ地上へと落ち、枯れゆく。そして、二度と咲くことはない。
 物悲しくあり、儚げでもある。
 桜花はまるで、人の生き様を見ているような気がする。
 あの日に見た桜は、一時の安らぎを与えてくれた。
 だが今は、偲ぶ想いで心が満ちている。
 それほど昔のことではないのに、遙か昔の出来事であったように感じる。
 男は想いを馳せるように、舞い落ちる桜花を映している瞳を、そっと閉じた。




 過ぎ去りし、とき




 鳥のさえずりが空に響く。飛び立つ羽音がして、風に揺られた花弁が一枚、猪口の中へひらりと落ちた。猪口に注がれた酒に、微かな波紋が広がる。
 酒に浮かんだ桜花の花弁に、土方は口端を僅かに上げ薄く笑った。
「どうした?」
 土方の向かいに腰を下ろし酒を飲んでいた近藤の瞳が向けられる。近藤は酒のせいで、頬が赤く染まっていた。
 あまり屯所にいられない自分のせいで土方を多忙にさせていると思った近藤は、息抜きと称して土方を花見へ誘った。
 局長と副長の二人が屯所を空けるなど、出来る訳ねぇだろ。
 土方はそう言って、近藤の誘いを断った。
 だがああでもない、こうでもないと近藤が粘った末に、土方は渋々とだが折れた。
 花見に酒は付き物だ、と近藤は言うが、土方はあまり酒が好きではない。だが上手い酒だから、と薦められ、一杯だけならと言った。
 猪口に注がれた酒は土方の口に入ることなく、近藤が猪口で四、五杯を飲み干した今も、注がれた時のまま少しも減っていない。
「いや、なんでもない」
「歳、俺達の間で隠し事はないだろう」
 些か気分を害した近藤は、眉根を寄せた。
 普段の彼ならば「そうか」と納得して終わりだが、酒が入り気分が高揚しているのか、些細な事で腹を立てた。
 ったく、酔ってんのか?しょうがねぇなあ…。
 胸の内で苦笑して、土方は口を開く。
「猪口に花弁が落ちてきたんだよ」
「ほお。それは風流だな。句でも詠んだらどうだ?」
 近藤が口元を緩め、楽しそうに笑う。
「人に聞かせるような句は詠めねぇよ」
 土方は猪口を傾けると、注がれている酒を花弁ごと飲み干した。飲みなれていないせいで酒が一気に回ったような気がしたが、矜持で平静さを装った。
「そうか。それは残念だな」
 未練がましく向けられる視線から逃れるように、土方は上を見上げた。
 深い紫色の瞳に、満開の桜花と青い空が映る。
 このような穏やかな時間は、ずいぶんと久しぶりだ。
 そう感じた自分に、心に余裕がなかったのだと気がつく。土方は誘ってくれた近藤に感謝した。
 不意に強い風が吹き、無数の花弁が宙を舞った。
「…桜吹雪、か…」
 土方は、ぽつりと呟いた。
「雪村君も連れて来ればよかったな」
 耳に届いた声に、土方は視線を近藤へ向ける。
「冗談じゃない」
「何故だ?」
 本気で理由をわからないらしい近藤に、土方は軽く溜息をついた。
「千鶴を連れて来たら、あいつら全員来るに決まってる。息抜きにならんだろう」
 心底から嫌そうに顔をしかめる土方に、近藤は首を傾げた。
 それほどひどいのだろうか。皆、仲が良くて結構だと思っているのだが。
 そう見えているのは近藤だけで、紅一点の千鶴が絡むと男達――幹部達は色めき立つ。特に沖田に土方は手を焼いている。
 黙り込んだ近藤が何を考えているか、土方はなんとなく察してしまった。
 だが、土方は近藤には言わない。
 面倒なことは全て副長である自分が処理すべきことだ。そう思っている。
 この先もずっと、それは変わらない。
 共に並んで歩いている限り。



 静かな足音が近づいてくるのを、土方の耳が捉えた。
「歳三さん」
 風に乗って届いた声に、土方は閉じていた瞳をゆるりと開く。
 声がした方へ視線を向けると、こちらへ歩いてくる妻の姿が映った。
「桜を見てたんですか?」
 土方の隣に立ち、千鶴は桜の樹を見上げた。
 五日程前は四分咲き程度だったが、昨日と今日とよい天気だったので、一斉に開花したらしく、満開になっている。
「……夢を見ていた」
「夢、ですか?」
 千鶴は桜から土方へ瞳を向けて、桜を見上げている彼の横顔を見つめる。微かに微笑んでいるが、どこか翳のある顔をしている気がした。
「ああ…戻らない夢だ」
 声に寂しさが宿っているように思えて、千鶴は痛ましげに黒い瞳を細めた。
 このあたりをぐるりと散歩していた僅かな間の事を、千鶴が推し量れる筈もない。
 かける言葉が見つからない。
 だから千鶴は、あの時と同じように、土方の身体を抱きしめた。
 その温もりを逃がさないとでもいうように、土方は千鶴の背中へ腕を回し、逆に抱きしめる体勢になる。
「………お前だけは、離れるな」
 まるで懇願するように耳元で囁かれた言葉に、千鶴は土方の背中へ回している腕に力を入れた。想いが伝わるように。
「離れろって言われても、絶対に離れません。約束、しましたよね?」
 全てを包み込むように優しい柔らかな声が、土方の耳へ届く。
「そうだったな…」
 土方は小さく笑って、千鶴の細い身体を強く抱きしめた。


 はらり、はらりと桜花が散りゆく。
 二度と会うことも、話すことも適わない、あの人への香華のように。

 一片の花弁が、土方の右肩へ舞い落ちた。




【終】



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