清く無垢な手を汚したくない
 白い手を血に染めさせられない
 進む道は血に濡れた修羅の道
 願われても、請われても、共に歩かせる事は出来ない
 故に突き放した
 平穏な道を歩いて欲しいと願って




 どれほど傷つけようと




 浮かぶのは笑顔ではなく、泣き顔。黒檀の瞳から溢れた大粒の涙が、白い頬を伝い流れていく顔だ。
 命が失われると、それが敵であろうと、彼女は哀しみに瞳を伏せる。必死に泣くまいと涙を堪えている顔は見ていたけれど、泣き顔は見たことがなかった。
 気丈な千鶴を泣かせたのは自分。付いて来ると言う彼女に、残れと告げた自分だ。
 もともと千鶴は父親を探すために京に来て、新選組も千鶴の父綱道を必要としていたから、彼女の身を保護する代わりに協力を求めた。
 まだ綱道は見つかっていないが、仲間ではない千鶴を戦いに巻き込むべきではない。
 起死回生は可能な戦況だが、もともと彼女のいるべき場所は新選組ではない。共にいれば戦いに巻き込まれるのは確実だ。
 故に体勢を立て直すため蝦夷に出航する際、彼女を本州へおいてきた。


 京に居た頃はよく笑っていた彼女の笑顔は、ぼんやりとしか思い出せない。
 最後に見たのが泣き顔だったからだろうか。
 千鶴を函館に連れて来なかったことを後悔してはいない。彼女を連れて来ないことが、自分に出来る最後の事。
 本州の藩のほぼ全てが新政府と手を結んだ今、幕府軍は追われる立場にある。
 蝦夷は雪に覆われているので、冬の間だけは新政府軍が攻めてくることは無い。だが、春になり雪が溶ければ、必ず蝦夷に攻めて来る。戦争になることがわかっていて、千鶴を連れて来られる訳がない。
 願うのは、千鶴の幸せ。平穏な日常に彼女がいられること。
 そのためならば、どれほど傷つけることになっても、突き放す。
「………足手まといな訳ねぇけどな…」
 雪の降り積もる外を窓越しに見ながら呟く。他にもっと言い方があるかもしれない。だが嫌われたと思わせるには、一番手っ取り早かった。
 勝沼で江戸へ援軍を求めに向かう自分を心配してくれた。
 宇都宮城の攻防戦で足に被弾した時は、的確な応急処置をしてくれた。
 下総流山の邸で別れた近藤が板橋で処刑されたことを会津へ向かう途中で知った時、千鶴は心を支えてくれた。
 仙台城で試衛館時代から付き合いのある山南と藤堂を失った時、千鶴がいてくれてよかったと思った。
 彼女は見返りを何も求めない。それなのに温かいものを与えてくれる。
 千鶴を守っていた筈なのに、いつの間にか支えられていたのは自分の方。彼女が傍にいるのは、当たり前になっていた。
 傍に居て欲しいと思わない訳ではない。出来るなら、傍においておきたい。
 手が届く場所に。声が聞こえる場所に。
 けれど、それでは千鶴が守れない。
 近藤も、新選組も、仲間も大事だと思うのと同じ位――もしかしたら、それ以上かもしれない。
 心に漣が立つには十分なほど、彼女を大切に想っている。
 惹かれるまいとするほど、惹かれてしまう。
「…らしくないな」
 土方は自嘲気味に口元を歪める。
 一人の娘に振り回される事など、自分とは無縁だと思っていたのに。
 新選組の鬼副長と呼ばれていた自分を沖田あたりが見たら、罵倒されそうだ。半年程前に病死した沖田の飄々とした顔が脳裏に浮かぶ。
 間違っているとは思わない。蝦夷地を平定した今も、そう思っている。
 けれど、ふとした瞬間、彼女が恋しくなる。 
 土方は深い溜息をつき、気持ちを切り替えた。
 蝦夷地を平定したとはいえ、やらねばならぬことは山ほどある。
 仕事を再開するために椅子を引く土方の耳に、扉を叩く音が聞こえた。
「土方君、今いいかな?」
 扉を隔てて届いた声は、上司である大鳥の声だった。
「ああ」
 大鳥が扉が開き、部屋の中へ入ってくる。
「もしかして出かけるところを邪魔したかな」
「いや、大丈夫だ。何か連絡か?」
 訊くと、大鳥は頷いた。
「明後日の事なんだけど、翌日に持ち越されることになったよ」
 明後日は五稜郭で会議が行われる予定になっている。そこで各地の現状況などを交換しあい、情報を共有する。
「延期か」
 会議や軍議の日程が変更されることは滅多に無い。
 深紫の瞳を僅かに瞠る土方に、大鳥は会議が延期になった理由を説明した。
「場所と時間に変更はないから」
「わかった」
「ところで、土方君」
 口調を砕けたものに変えた大鳥に、土方は視線で先を促す。最初こそ性格が合わずいがみあっていた二人だが、今では仲良くやっている。だから、土方がこういう態度をとっても大鳥は気にしない。これが土方歳三という男なのだと、わかっているから。 
「明日時間を少し空けて欲しいんだけど」
「茶なら俺とじゃなくてもいいだろう」
 遊びに来るつもりか、と渋い顔をする土方に、大鳥はははっと笑う。なんだかんだ言いつつ、茶菓子を持参してきて茶に誘うと付き合ってくれるのに、まったく素直じゃない。
「残念だけど、そうじゃないんだ」
「俺はちっとも残念に思っちゃいねぇよ」
 土方が瞳を細めて不敵に微笑むが、大鳥は気にしない。
「でも君は喜ぶと思うよ」
 大鳥の言葉に土方は眉を顰めた。話に繋がりがなく、意味がわからない。
「大鳥さん、それはどういう意味だ?」
「そのままの意味さ」
「はぁ?」
「ま、明日になればわかるよ。じゃ、僕はこれで」
 退出を告げると、大鳥は部屋から出て行った。
 一人残された土方は腕を組んで、盛大な溜息を吐く。
「言いたい事だけ言っていきやがって」
 皆目検討がつかない。何の事だかわからなくても、気になって仕方がない。
 これからまだ片付けなくてはならない仕事があるのに、手につかないではないか。
 大鳥がふらっと来て茶に誘ったり、世間話をして帰っていくのは、別に珍しい事ではない。むしろ日常茶飯事になっている。
 だが、今日のようにすぐに帰るのは初めてだ。しかも、謎な言葉を残して。
「……明日になりゃわかるか…」
 土方は自分に言い聞かせるように呟き、途中だった仕事を再開するべく机に向かった。


 翌日の午後。
 土方は二ヶ月振りに千鶴と再会したのだった。




【終】



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