奇跡はきっと




 奇跡を信じた事はない。
 信じるものは救われる、などという信仰心もない。
 けれど――。
「……奇跡、ね」
 信じた事はないけれど、今はそれにさえ縋り付きたいと思った自分に苦笑する。
 奇跡に頼らなければならないほど、情けない男ではない筈なのに。
 彼女――千鶴が関係すると、どうにも調子が狂う。気がつかない自分に気がついてしまって戸惑う 事は何度もあった。――過去に。
 もっと生きていたいと願ったけれど、命を削っていた身は長くは持たなかった。予想していたより長 くは持ったけれど、千鶴が望んだほどは持たなかったのだ。夫婦として過ごした時間はあまりに短くて、子には恵まれたけれど、幸福な人生だったけれど、もっと彼女の傍に居たかった。
「千鶴…」
 君はどこにいるんだ?
 驚いた事に、総司は自分の過去を覚えていた。記憶を思い出したのは、数ヶ月前。夏休みに家族旅行で山梨に行 った時だ。見覚えある場所に戦慄し、瞬く間に過去を思い出した。楽しい思い出も苦しく辛い思い出も、その全てを。思い出せずに生きられたなら、たぶんその方がいいのだろう。
 短くとも濃い人生だったし、後悔はしていない。けれど、心残りはあった。
 いつのまにか心のよりどころに、帰る場所になっていた、人。
 過去の記憶が鮮明になって、とても会いたくなった。
 けれど、彼女が生まれ変わっているかどうかなどわからない。居るかもしれないし、居ないかもしれない。彼女の存在を確かめる術は無いのだ。
 季節外れの転校生として自分の通う高校に入学してきたり、街中で偶然すれ違ったり、あるいは昔暮らしていた町の近くや京都で再会できるかもしれない。あるかどうかわからない偶然に頼るよりも、と可能な限り可能性がありそうな場所を探し歩いた。
 千鶴を探し始めてもう半年――それとも、まだ半年と言うべきか。

 こんなにも千鶴を渇望し、恋しく想うのは、過去の想いに心が捕らわれているからだろうか。
 事実、心は永遠に千鶴に捧げた。

「…………ホント、らしくないな」
 あーあ、いやになるなぁ、とぼやいて空を見上げた。
 最後に見た、瞳から涙を零しながら懸命に微笑んでくれた千鶴の後ろに見えた空と同じ色だ。もう少しだけ千鶴の傍にありたくて、「寂しいよ…」と唇から零れたのを覚えている。
「君はさ………」
 来世で逢えます。きっと総司さんを見つけます。
 そう言ってくれたけれど、本当に逢うことが叶うのだろうか。
 総司は深い溜息をついた。
 いつもならここまで深く考え込む事は無いのに、クリスマスで盛り上がる世間の雰囲気に飲まれたのか、答えのない問いばかり考えている。
 12月25日――クリスマスが終わるまであと数時間。その間に奇跡が起こるとは思えないが、もし信じたのなら…?
 今だけ、奇跡を信じてみようか。
 千鶴と再会が叶うのなら。

 奇跡はきっと……――

 そう誰かが囁いた気がした。鼓膜を微かに揺らしただけの、声というよりも音のようなものだった。
 気のせいかと思ったけれど――。
 懐かしい声で名を呼ばれた気がして、総司は視線を滑らせた。総司は息を呑み、千歳緑の双眸を見開いた。
「ち、づ…?」
 間違える筈がない。
 唯一愛した、傍にある限り幸せをと願った、最愛の妻だった人。
 総司は人並みにかまわず、一直線に駆け出す。
「千鶴!」
「総司さんっ!やっと逢えました…!」
 総司は千鶴の存在を確認するようにぎゅっと華奢な身体を抱きしめる。
 何百年振りだろう。こうして千鶴を抱きしめるのは。
「千鶴…」
 彼女の名前以外に言葉が出てこないのはどうしてだろう。
 愛しい。
 嬉しい。
 逢いたかった。
 そのどれも合っていて違う。
「……好きだよ、千鶴」
 耳元で囁く。
「私も総司さんが好きです」
 柔らかな唇で紡がれた言葉は、覚えているものより遙かに強く心を揺さぶる。
 熱い想いが体中を駆け巡る。

 再会は運命――ではなく、奇跡なのかもしれない、と心の片隅でほんのちょっとだけ総司は思った。




【終】

※2010.05.10 再録

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