漁夫の利 冬の澄んだ空気は肌を差す冷たさ。それ以上に千鶴の傍にいる二人の纏う空気は冷たく凍っている。 目の前で睨み合い火花を散らす二人から感じるのは、すさまじい殺気。無言でにらみ合っているから、尚更恐ろしい。 とても口を挟める雰囲気では無く、千鶴はおろおろと成り行きを見守るしかできない。一般人相手ならともかく、魁先生と呼ばれる藤堂平助と一番組組長の沖田総司を相手に自分の意見など言えるはずがない。先程千鶴は口を開こうとしたのだが、「君は口を出さないでくれるかな」と沖田に満面の笑顔で制止された。口元は笑みを湛えているのに翡翠の双眸は全く笑っておらず、千鶴は黙って頷くしかなかった。 二人の殺気が自分に向けられているのでは無いと頭で理解していても、身体は耐えられずに慄いてしまう。 どうしてこんなことになっちゃうの? 胸中で呟いて、千鶴は細い肩を落とした。 事が起こったのは、少し前のこと。 行方不明になった父親を探していた千鶴は、ひょんなことから京の治安を守る新選組に身を置く事になった。自分の命と引き換えたような形ではあったが、父探しの味方を得ることができた。だが、千鶴に外出の許可は出されていない。13日前、千鶴は誰かに外へ出たいと言ってみようと中庭に顔を出した。そこには沖田と斉藤がいて、最低限自分の身を自分で守れなくては連れて行けないと言われた。帯刀をしていても抜刀し人を傷つけるのは嫌だったが、父親を探しに行くために、巡察に同行するのを許可してもらうために、千鶴は斉藤に挑んだ。一本取ることはできなかったが、太刀筋を見てくれた斉藤から「お前は連れ歩くのに問題ない腕だ」と太鼓判を押された。だが千鶴が屯所の外に出るためには、副長である土方の許可が必要だ、と言われた。わかっていたことだが、千鶴は落胆が隠せなかった。そんな彼女を見て、斉藤は「俺たちからも土方さんに進言しておく」と言ってくれた。 土方は大阪に出張中でしばらく戻らない。けれど、外出の許可を得るためにも、稽古をして腕を磨いておこうと千鶴は決心した。 それから彼女は毎日時間を見つけて、中庭で稽古をしている。中庭で一身に竹刀を振る千鶴の姿を見かけた斉藤や原田、永倉が見てくれることもあった。 そして今日は「非番だから」と藤堂が稽古に付き合ってくれていた。 素振りより実践の方がいいだろ、と千鶴は藤堂と打ち込みを始めた。打ち込みと言っても千鶴の稽古が目的なので、藤堂は千鶴の竹刀を受け止めるだけだが。江戸で道場に通っていた千鶴は元から筋がよかったので、目に見えて上達していた。 竹刀と真剣では重さが全く違うが、腕の立つ幹部たちを相手に怪我をさせることはないとわかっていても、千鶴は真剣を向けることができない。故に竹刀で稽古をつけてもらっている。 半刻程打ち合った頃、息を弾ませる千鶴に藤堂が休憩を提案した時、巡察から戻った沖田がふらりと中庭へ顔を出した。 「…平助君。君、今何してたの?」 「え?千鶴の稽古だけど?」 訳がわからないまま答えると、沖田は翡翠の双眸をすっと細めた。彼の周囲の空気が変わったのを藤堂は瞬時に感じ取り、大刀へ手をかけた。 沖田から感じるのは紛れも無い殺気。 「遊んであげるって約束したのは、僕が先だよ」 不機嫌を露にした沖田に、藤堂はわけがわからず訝しげに眉を顰める。 「なんのことだよ」 藤堂が自然と不機嫌になるのも無理はない。沖田の言う意味がさっぱりわからない上に、何故か敵意を向けられているのだ。心当たりもないのに睨まれる筋合いはない。 視線に力を込めて、藤堂は沖田を見上げる形で睨み返す。 どうしたらいいの? 私じゃ止められる前に斬られちゃうし…やっぱり誰か呼んでくるしかないかも…。 唇をきゅっと噛み締めて、千鶴が踵を返そうとした瞬間。左手首をぱしっと掴まれた。走り出そうとしていた千鶴は重心を崩して転びそうになる。だが腹に回された腕に、千鶴は転ぶのを免れた。 ほっとして息をついたのも束の間、そのまま抱き寄せられてしまった。 見上げた千鶴の瞳に映ったのは、にっこり微笑む沖田。彼の身体から殺気は感じられない。何故急に殺気がなくなったんだろうと思いながら、千鶴は助けてもらった礼を言っていないことに気がついた。 「あの、ありがとうございます」 「何言ってんだよ、千鶴!総司が原因なんだから、礼を言う必要ねーって!」 「平助君、羨ましいの?」 沖田は見せ付けるように千鶴をぎゅうっと抱きしめて、挑戦的な笑みを浮かべる。 「おおおお沖田さんっ!」 藤堂のこめかみに青筋が浮かんだのを見て、千鶴は焦りながらも沖田の腕から逃れようともがく。けれど女の力で男の、しかも鍛えられた腕を振り払うことは適わない。 隊内で私闘は禁じられているが、それを言ったところで収まらないだろう。このままでは血を見る事態になりかねない。 せめて誰か通りかかってくれたらと千鶴が思った時、こちらに近づいてくる人影があった。 「さいっ――」 斉藤さん、助けてください!と千鶴は言おうとしたが、ぱっしゃーーんという水音にかき消された。 三人の髪からぽたぽた雫が滴り落ちる。 「何するんだよ、一君!!」 「水をかけるとかありえないよね…」 藤堂と沖田がそれぞれ抗議の声を上げるが、三番組組長は涼しい顔を崩さずに言った。 「頭は冷えたか」 「冷えるもなにも風邪引くっての!」 びしょびしょじゃん、とぼやく藤堂の耳に盛大なくしゃみの音が届いた。 「うわっ、千鶴大丈夫か!?」 「大丈夫じゃないからくしゃみしてるんじゃない」 水の滴る前髪をかき上げながら沖田が突っ込みを入れる。 「茶々を入れるなよ!」 今にも沖田に掴みかかるような勢いで藤堂が怒鳴る。 先程よりも険悪な雰囲気になった二人に、千鶴は顔から血の気が失せた。沖田が手を放したので身体は自由にはなったが、千鶴は成す術がなく右往左往してしまう。そんな彼女を斉藤がぐいっと引き寄せた。 「行くぞ」 「えっ、あの、斉藤さんっ?」 斉藤は千鶴の手首を掴んで歩き出す。千鶴はわけがわからず戸惑っているが、斉藤は振り向いてくれない。 「ちょっと、斉藤君!」 「千鶴をどうする気だよ!」 沖田と藤堂の声に斉藤はぴたりと足を止めて、二人へ視線だけを向けた。 「風呂に決まっているだろう」 淡々と答えて、斉藤は千鶴へ視線を向けた。 「行くぞ」 「えっ、でもっ…」 「風邪を引きたいのか?」 「いえ、そうじゃなくて。二人はいいんですか?」 「そんなにやわな奴らじゃない。お前が気にすることは無い」 「でも原因は私な…っくしゅんっ!」 「話なら後で聞く」 ぶるりと身体を振るわせた千鶴は「はい」と頷いて、素直に斉藤についていった。 去っていく二人を黙ったまま、けれど恨みがましく見送る形になってしまった沖田と藤堂は一瞬だけ視線を交わし、はぁ、と溜息をついた。 「総司のせいでえらい目に遭ったぜ」 「それは僕の台詞。千鶴ちゃんと遊んであげる、って約束したのは僕が先なのにさ」 「先も後も関係ねーよ。元はといえば総司が悪いんだ!」 「平助君だよ」 「総司だ!」 「平助君」 「総司!」 「平助!」 寒空の下で言い合う二人をたまたま通りかかった原田が見て、訝しげに眉を顰めた。 「お前ら、なんで濡れてんだ?」 呆れた顔で言う原田に口を開いた二人は、揃ってくしゃみをしたのだった。 【終】 戻る |