湯上りにご用心




 冷たい風が吹き、木々の梢を揺らす。
 天の陽は山際へ沈み、夜が近づいて来ていた。冬である今、陽が落ちるのは早く、寒くなるのも早い。
 市中の店はすでに戸が閉まり、明かりがついているのは、旅籠や居酒屋くらいだ。
 天には月が出ているが、今夜は新月で薄暗い。星明りはあるけれど、提灯なしでは夜道を歩けない。よほど夜目が利くのならばともかく、提灯なくして歩くのは、普通の人には無理だろう。
「…来月で一年か」
 屯所内、与えられた部屋の畳の上に座っている千鶴は、ふぅと溜息を吐いた。
 父を探しに江戸を出て京に来てから、来月で一年になる。だが、依然として父の行方は知れない。
 京に来た日に騒動に巻き込まれ、千鶴は新選組に身を置くことになった。新選組も父の綱道を必要としており、協力してくれることになった。
 昼間の巡察に時々連れていってもらっては、市中で父のことを尋ねた。屯所で留守番をしている時は、親しくなった幹部達が探してくれ、結果を報告してくれている。
 それなのに、一年近くも父の行方は勿論、情報さえも得られないでいる。きっとすぐに見つかると思っていたのに、これほど時間がかかるとは思わなかった。
「……父様、どこに行ってしまったの?」
 言っても仕方が無いのはわかっているが、つい口から零れてしまう。
 せめてほんの少しの情報でもと思うが、まるで巧妙に隠されているかのように掴めない。
 行方知れずのまま、時間だけが過ぎていく。
 本当に見つかるのだろうか、という不安が心に圧し掛かる。
 その思いを振り切るように、千鶴はかぶりを振った。諦めたら駄目だ。新選組のみんなが父探しに協力してくれているのだ。きっと見つかる。
 前向きに頑張らなきゃ。
 胸の内で決意を新たにした千鶴が気合を入れるようにひとつ頷いた時。
「千鶴ちゃん」
 不意に自分の名を呼ぶ声に、千鶴は頬を緩ませた。
 縁側に面した障子に映っている人影に、返事をする。
「はい、います」
 すると、くすっと小さな笑い声が聞こえて、すっと障子戸が開かれた。
 千鶴の黒い瞳に微笑む沖田の姿が映る。
 沖田は部屋の中へ入り、千鶴の正面へ腰を下ろす。
「千鶴ちゃん、風呂に行こう」
「は?」
 千鶴の口から間の抜けた声が出た。
 一瞬からかわれているのかと思ったが、沖田の顔を見る限り違うようだ。出逢ってから数ヶ月経ち、少しは彼に表情から読み取れるようになった。
 千鶴は沖田の反応を窺うように、おずおずを口を開く。
「あの、沖田さんと、ですか?」
「僕とじゃ不満なの?」
 沖田が口端を上げ笑みを深める。
 いじめられる、と瞬時に思った千鶴は慌てた。
「ふっ、不満とか以前の問題です!一緒になんて、そんな…」
 耳朶まで真っ赤に染めて訴える千鶴に、沖田は不思議そうに首を傾ける。
 何を言ってるんだろう、この子は。とでも言いたそうな顔だ。
 どうして不思議そうな顔してるんだろう。
 沖田の表情を見て、千鶴も首を傾けた。話がさっぱりわからない。
「千鶴ちゃんが一緒に入りたいなら僕は構わないけど、混浴ってないんじゃないかな」
 江戸時代の初め頃は存在していたようだが、幕府が湯屋での混浴を禁じているので、混浴のある湯屋はないだろう。温泉宿ならばあるかもしれないが、湯屋に限ってはないだろうと思う。
 混浴って、沖田さんと私が?
 混乱して頭が真っ白になる千鶴を気にせず、沖田は尚も言葉を紡ぐ。
「けど、混浴は駄目かな。だって千鶴ちゃんの肌を見ていいのは僕だけって決まってるし。ね?」
 にっこり微笑みながら、沖田は千鶴の顔を覗き込む。彼の笑顔は、とても楽しそうだ。
 またからかわれているのだろうか。いや、本気で言われていても困る。
 沖田の事は嫌いではない。むしろ好意を持っている。けれど、それとこれとは別問題だ。
 頷いたら絶対最後というのはわかっている。沖田なら言質を取ることくらい、やすやすとやってのけるだろう。
 あれこれ考えていた千鶴は、ふと引っかかる言葉があったことに気がついた。
「沖田さん」
「ん?」
「さっきお風呂に行くって言いましたよね」
「うん、言ったよ」
 頷く沖田に千鶴はほっと胸を撫で下ろす。
「よかった…」
「じゃあ、出かけようか」
 立ち上がった沖田に腕を掴まれ立たされた千鶴は、驚きに黒い瞳を瞬いた。
「出かけるってどこにですか?」
 きょとん、と首を傾げる千鶴に、沖田は苦笑した。
「話の流れでわかるでしょう」
「……お風呂、ですか?」
 行きます、と返事をしていないのに何故行くことになっているのか。誰か教えて欲しい。
 そう千鶴が胸の内で呟くのはもっともだった。
 沖田総司という男は、いつでも自分のしたいようにする。
 人の話を聞いてはいるが、聞いちゃいねぇ。
 苦虫を噛み潰したような顔でぼやいていたのは、泣く子も黙る新選組の副長だった。
 土方の言葉を身を持って知る日が来ようとは、砂一粒分も思っていなかった。
「風呂というか、湯屋だけどね」
「え?あ、ですが、私お金ないですよ。それに勝手に屯所を出たら怒られてしまいます」
「ああ、それは心配ない。千鶴ちゃんと湯屋に行って来い、って言ったの近藤さんだから。湯銭もくれたよ」
「それを一番初めに言ってください」
 はぁ、と脱力する千鶴に沖田は飄々とした顔で言った。
「だって聞かなかったじゃない」
 沖田の言葉に千鶴はもう何も言えなかった。
 言っても疲労だけが増えるような気がする。それならば何も言わないほうがいい。


 提灯の明かりがぼんやりと夜道を照らしている。
 二人の足音と風の音が静かな闇の中に響く。
 あのあと支度をして、二人は屯所を出た。遅くなると寒くなるのはもちろんだが、夜は安全とは言い難い。新選組が市内を取り締まっていても、不逞の輩が居なくなった訳ではないからだ。
 もっとも、新選組一番組組長である沖田が剣で適わない相手などそうそう居ない。が、千鶴を危ない目に遭わせたくない。そう思い始めたのは最近になってからだが、守らなくてはと思う。
 沖田と並んで歩きながら、千鶴は気になっていた事を質問した。
「近藤さんはどうして沖田さんと私に湯屋に行って来い、って言ったんでしょう?」
「千鶴ちゃんがゆっくり入れないのを気にしてたみたいだね」
 千鶴の性別が女であることは、幹部の人間しか知らない、言わば最高機密のようなものだ。
 平隊士たちに千鶴の事が露見しないよう、彼女は入浴の際、幹部の誰かに風呂の前で見張ってもらっている。そのことを申し訳なく思っている千鶴は、いくら言ってもゆっくり風呂に入らない。
 それを耳にした近藤がそれならば、と湯屋に行くよう仕向けたらしい。
 沖田から詳細を聞かされた千鶴は感動した。
 近藤さん、なんて優しいんだろう。帰ったらお礼を言わなくちゃ。
 自然と頬が緩むのを止められない。
「とても嬉しいです」
「君の顔を見たら、近藤さん喜ぶだろうなぁ」
 くすくす笑う沖田を見上げた千鶴は、ふと思った。
「…どうして沖田さんなのかな?」
 自分は監視対象だから、誰かが同行する事に疑問はない。
 けれど、何故一緒に行くのが沖田なのだろう。
 千鶴の微かな呟きが聞こえていた沖田は、千歳緑の双眸を細めた。
「千鶴ちゃんと仲が良さそうだからだって」
 耳に届いた言葉に千鶴は黒い瞳を驚きに瞠る。
 一緒にお茶を飲んだり、沖田と一緒に八木邸の子供や近所の子供と遊んだりしていたことはあるけれど、そのことだろうか。
 楽しい時間だけれど、仲が良いというのとは少し違う気がする。
「僕と仲が良いって言われるのは嫌なの?」
 沖田は長身の体躯を僅かに屈めて、黙り込んだ千鶴の顔をひょいと覗き見る。驚いて一歩身体を引いた千鶴は、小石に足を取られ重心を崩した。
「わわっ」
 地面に倒れそうになる細い身体を力強い腕が引き戻す。
「君ってホント、目が離せない子だね」
「うっ…すみません」
 しみじみ言われて、千鶴は頭を下げた。
 考えてみれば、危ないときに沖田に助けられてばかりだ。
 申し訳なさすぎて、穴を掘って入ってしまいたい。
「ほら、千鶴ちゃん」
 不意に左手を差し出した沖田に、千鶴は瞳を瞬いた。彼の手と顔を交互に見る。
 この状態はつまり、そういうことでいいのだろうか。
「また転びたいなら別にいいけど」
 そう言いながら沖田は優しく微笑んでいたので、千鶴は甘えることにした。
 ためらいがちに右手を伸ばすと、彼の手に重ねる前にぎゅっと握られる。
 そうして二人は手を繋いで湯屋へ向かった。


 暖簾をくぐり、湯屋へと入る。
 上がり口で下足を脱ぐと、下足番が二人の下足を下足箱へしまい、木札をそれぞれに手渡した。これを帰る時に見せると、下足を出してくれる。
 沖田は番頭に二人分の湯銭を払った。
「ゆっくり入っておいで」
 ぽんぽん、と頭を叩く沖田に千鶴は素直に頷いた。
「はい」
「じゃ、そこで待ち合わせね」
「わかりました」
 そして沖田は男湯へ、千鶴は女湯へ足を向けた。
 数刻後。先に風呂から上がったのは、沖田だった。自分の方が早いだろうと思っていたので、沖田は気にしない。
 すたすたと上がり口の脇まで歩いて行き、木壁にほかほか湯気の上がる身体で寄り掛かる。
 腕を組んで待っていると、しばらくして千鶴がようやく姿を見せた。彼女の身体からも先程の自分と同じように湯気が出ている。白い頬に赤みがさしているのを見ると、よく温まってきたようだ。
 沖田は傍に来た千鶴を不意に抱きしめた。冷えてしまった身体が彼女の熱で温められていく。
「僕が風邪をひいたら、きっとお風呂からなかなか上がってこなかった誰かさんのせいだ」
「あ…お待たせしてしまってすみません」
 ゆっくり入っておいで、と言われた事など忘れ、千鶴は詫びた。
「…千鶴ちゃん、いい香りがする」
「えっ?そう、ですか?」
 石鹸を使ったからその香りかもしれないが、自分ではよくわからない。
「だから、もうちょっとこうしてていいよね」
「ちょっ、離してくださいー!」
 更にぎゅうっと抱きしめられた千鶴は沖田の腕から逃れようともがく。
 だが鍛えられた男の腕を振り払うなど、女の細腕で出来る筈がない。
「やだ。千鶴ちゃんあったかいんだもん」
「私が冷えちゃいますよー」
「大丈夫。僕が温めてあげるから」
「結構です」
「遠慮しなくていいのに」
「遠慮なんてしてません!」
 そんな二人の姿を湯屋から帰る客たちが遠巻きに見ている。だが、口を挟む者は誰一人いない。

 かくして、千鶴は沖田の気が済むまで抱きしめられ、すっかり身体が冷えてしまい、後日体調を崩して寝込む破目になるのだった。




【終】


まことゆたか様のイラストに小話をつけさせていただきました。


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