君が好き




「……らい…」
 耳に届いた声はとても小さくて、はっきり聞き取れなかった。
 細い肩が震えていなければ、黒い瞳がこっちを見ていたら、「何?」と聞き返せるが、千鶴の身体は頼りないほど震えていて、聞き返すことなどできない。
「千鶴ちゃん…」
 どんなことを言えばいいのかわからず、いつも微笑みを絶やさない沖田だが、今は焦燥にかられた顔で少女の名を呼ぶのが精一杯だった。
 少し前までは笑ってくれていた顔は、見る影も無い。
 そうさせてしまった原因は、他ならない自分。
 沖田は震える手に力を込めて、千鶴へ伸ばす。けれど、その手は触れる前に華奢な手で振り払われた。それは普段借りてきた猫のようにおとなしい彼女からは想像できない姿で、沖田は驚きに千歳緑の瞳を瞠った。
 完全なる拒絶に、心臓が音を立てて凍った気がする。
「…嫌い、です…沖田さんなんて大嫌いっ!」
 悲痛な叫びが静寂を破り、響く。
 千鶴は黒い瞳の眦から涙を零しながら、その場から走り去った。
 瞳さえ合わせてもらえなかった。それがより一層、心の中に翳を落とす。
【大嫌い】の一言が、胸に痛い。一番聞きたい言葉は、それと正反対な言葉。だからこそ、こんなにも胸が締め付けられるのだろう。
 華奢な背中が小さくなっていく。早く追いかけなくてはと思うのに、足は縫いとめられてしまったように動かない。
「……なに泣かせてんだ?」
 不意にかけられた声に振り向くと、呆れた顔の土方が立っていた。いつもの自分なら、とっくに土方の存在に気がついていた筈。まさか一部始終を見られていたとは不覚だった。
「………泣かせたかったわけじゃないですよ。泣いちゃったんです」
 沖田は千鶴が走っていた方へ視線を向けながら、言葉を紡いだ。彼の顔にいつもの飄々とした余裕さは微塵も無い。それだけ千鶴を気にしているのだということが、容易にわかる。
「同じことだろうが。…ったく、どうしようもねぇな」
 吐き捨てるように言われて、沖田は深い溜息をつく。
 誰に言われるでもなく、千鶴の涙の原因は自分にあることぐらい自覚している。
「土方さんに言われたくないですけど…今回ばかりは僕もそう思いますよ」
 本当の本当に、彼女を泣かせるつもりなどなかった。
 彼女の反応が面白くて、ついちょっかいを出したくなってしまって、ちょっとからかった。それだけのことなのに。千鶴にとったらいい迷惑だとわかっていたけど、楽しくてやめられなくなっていた。
 その度に千鶴は抗議して怒っていたけれど、なんだかんだで最後は許してくれていた。
 だから、大丈夫なのだと思っていた。
 その勝手な思い込みが、千鶴を泣かせた。
「なら、早く行け。晩飯に千鶴が顔を出さなかったら、お前は晩飯と朝飯と昼飯抜きだ」
 沖田の返事を待たず、土方は踵を返す。
「…さすがにそれはきついかも」
 ははっ、と苦笑して、背中を押された沖田は、急いで千鶴の後を追った。
 彼女一人では屯所の外には出られない。泣いていたから、庭にも居ない筈。
 だから沖田は、千鶴の自室へ脇目を振らず向かう。


 千鶴は全速力で自室に駆け込んで、襖に背中を預けてずるずると座り込んだ。
 拭っても拭っても、涙が溢れて止まらない。
 頬を伝い流れ落ちる涙が、畳の上にぽつぽつと零れ落ちる。
「うっ…っく…っ」
 彼が軽口を叩くのはいつものこと。からかわれるのも、振り回されるのも、日常茶飯事。
 彼にとって自分は、からかいの対象――遊び相手でしかない。
 それはわかっているし、それでもかまわない。彼と一緒にいられることが、嬉しかったから。
 けれど、先刻の言葉は冗談にしては性質が悪すぎる。
 はっきりと口にしてはいないけれど、千鶴は沖田が好きだ。
 それを彼が気がついていなくて言ったのならば我慢できた。けれど、気がついていて言うなんて酷過ぎる。。
 でも、悲しかったからと言って、彼に【大嫌い】と言った自分の方が許せない。
 沖田さんなんて大嫌い。
 本当に言いたいのは、こんな事じゃないのに。
「…好き、なのに…っ」
 彼の瞳が自分を捕らえただけで。
 優しい微笑みを向けられただけで。
 からかいで抱きしめられただけで。
 名を呼ばれただけで。
 嬉しくて、幸せで心が満たされるのに。
 好きという気持ちが溢れて止まらない。
「………沖田さん…」
「なに?」
 呟きに返事をされて、千鶴は心臓が口から飛び出るほど驚いた。
 白い頬を伝い落ちていた涙が驚きで止まる。
「……なんの用ですか?」
 沖田の顔を見ていられなくて、千鶴は視線を外して言った。平気な顔で彼の顔を見られるほど自分は大人ではないし、心も広くない。出来ることなら、今一番会いたくないと思っているのだから。
 沖田は視線を合わせてくれない千鶴の前にしゃがみこんだ。そして、腕を伸ばして、華奢な身体を腕の中に閉じ込める。
 千鶴は逃れようともがくが、沖田は腕の力を緩めない。更にぎゅっと抱きしめる。
 千鶴が逃げないように。離れていかないように。
 腕の中に閉じ込めた温もりは、とても大切で、手放せない。
 この瞳に映るのが君だけのように、君の瞳にも僕を映して。
 この先どうなるかわからないから、一生言わないと決めていた言葉を、沖田は唇に乗せる。
「……好きだ」
 耳元で囁かれた言葉に、千鶴の身体が震えた。
 壊れる寸前の心は、素直に言葉を受け入れられない。信じたい気持ちと信じられない気持ちが、せめぎあう。
「………また冗談、ですか」
「本気だよ。僕は君が好きだ」
 君が信じてくれるまで、何度だって言う。
 僕はそれだけの事をしてしまったから。
 沈黙を続ける千鶴に、沖田は言葉を重ねる。
 心に宿る気持ちを全て込めて。
「本当に君が好きなんだ」
「……本当…に?」
 千鶴の掠れた声に、沖田は千歳緑の双眸を細める。
「本当だよ。泣かせて、ごめん」
 囁いて、涙で濡れる黒い瞳の眦に口付けた。




【終】


初出・WEB拍手 再録にあたり改題・加筆
「05.本当に言いたいのは、こんな事じゃないのに(あまいきば・とめられない、5のお題)」


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