恋情




 空は突き抜けるように青く、大きな入道雲が浮かんでいる。
 新選組の屯所へ千鶴が来て――というよりも、連れて来られてという方が正しいかもしれないが、それから半年が過ぎた。
 ここへ来た当初は、半年も身を置くことになるとは思わなかった。だが、父の行方が掴めないのだから仕方がない。自分一人より、協力してくれる人たちがいるのは心強い。それに、最低限必要な金子しか手元になかったので、屯所に置いてもらえるのは有難かった。
 初めは戸惑うことも多かったけれど、千鶴の事情を知っている幹部の人たちに助けられて、屯所での生活にも慣れてきた。
 梅や桜、燕の季節はとうに過ぎ、今は夏真っ盛り。
 京の都は盆地にあるため、夏の暑さは江戸の比ではない。屯所の中は蒸し暑く熱気が渦を巻いる程で、そのような場所にじっとしてなどいられない。
 少しでも涼しくなる方法はなだろうか、と考えた千鶴は、よいことを思いついた。
 あ、でも、土方さんに許可を取った方がいいかな。
 大丈夫とは思うが、言っておいた方が無難だし、安心だ。
 千鶴は自室を出て、許可を得るべく、土方の部屋へ向かった。


 昼間の巡察から屯所に戻った沖田は、手拭いで汗をふきながら中庭へ足を向けた。
 うだるように暑い屯所の中にいるよりも、少しでも風がある屋外にいた方がまだましだ。
 中庭に近づいていくと、ぱしゃん、ぴしゃん、と水音が聞こえてきた。
 誰かが井戸で水浴びでもして、涼をとっているのだろうか。
 新八さんとかやりそうだなぁ。
 でも、こんなに暑いのに水浴びしても、大して涼しくなるとは思えないけどな。
 つらつら考えながら中庭にたどり着いた沖田は、千歳緑の瞳を瞬いた。
「千鶴ちゃん?」
 千鶴は打ち水をしている手を止めて、声がした方へ視線を滑らせる。
 沖田の姿を視界に捉えた千鶴は、頬を緩めた。
「おかえりなさい、沖田さん」
「ただいま」
 出迎えられて悪い気はしない。
 笑顔で答えて、沖田は千鶴との距離を縮める。
「ここ、涼しいね」
 沖田が微笑むと、千鶴は嬉しそうに黒檀の瞳を和らげた。
「本当ですか?あまりにも暑いから、打ち水をしたら少しは暑さが和らぐかと思ったんです」
 涼しいと言ってもらえたのが嬉しくて、千鶴は首を傾けて微笑んだ。沖田はそんな彼女の頭に右手を乗せて、小さい子を褒めるようによしよしと撫でる。
 千鶴は思わず「子ども扱いしないてください」と言おうとして、口を噤んだ。
 抗議をしたところで「子どもだよ」言われるのがおちだろう。背伸びして頑張っても、大人と呼ばれるのに早いのはわかっている。
 けれど、彼のこういう扱いが胸に痛い。彼は大人、自分は子供。そう言われているような気がして、ちくりと胸が痛む。
 それに、沖田に口で勝てる筈がない。適うわけがない。鬼副長と呼ばれ隊士たちから恐がられている土方さえ、口では沖田に勝てない。だから、千鶴が勝てる筈がない。
「あれ?どうしたの?」
 訊きながら、沖田は千鶴の顔を覗きこむように距離を近づけた。
 不意に近くなった彼の顔に、千鶴の心臓が跳ねる。
 端整な顔、千歳緑の双眸、緩く弧を描く口。そして、柔らかな微笑み。
 見慣れたはずの笑顔なのに、呼吸が不自然に乱れる。
「…なんでも…ありません…」
 ぎこちない笑顔でそう言うのが精一杯だった。
 僅かに視線を逸らすと、こちらへ歩いてくる人影に気がついた。
 その人影に千鶴はほっと息をつく。
 沖田に深く追求されずに済みそうだ。
 今は、かもしれないけれど。それでも救われたと思った。その人が発する言葉を聞くまでは。
「千鶴。副長が呼んでいる」
 千鶴は舞い上がった直後、地面に叩きつけられたような気がした。
 幹部の人達は嫌いじゃない。むしろ好意を持っている。
 けれど、その中で土方だけは二人きりだと緊張してしまう。
「わかりました」
 返事をして副長室へ行こうとしたが、すぐに行けないことに気がついた。
 まだ打ち水の途中で、桶の中に水が残っている。
 急いで片付けて行くしかないかな。
 土方は千鶴が何をしているか知っている。だから終わってからでも大丈夫ではないだろうか。
 そんなことを考えていると、横合いからひょいっと手が伸びてきた。
「あとは俺がやっておく」
 手に持っている桶がふっと軽くなる。見れば、斉藤の手が取っ手を握っていた。
「でも、いいんですか?」
 訊くと、斉藤は「ああ」と頷いた。
 千鶴は素直に斉藤に甘えることにし、桶の取っ手から手を離す。
「すみません、お願いします。戻ってきたら変わりますから」
 斉藤に頭を下げて、千鶴は中庭に面した廊下から邸に上がった。
 彼女の後ろ姿をぼんやりと見送る沖田の耳に水音が届く。
 見ると、斉藤が千鶴の代わりに打ち水をしている姿があった。
「斉藤君は余裕だね」
「…何がだ?」
 斉藤は作業をしたままで、沖田に一瞥もくれない。
「ふぅん。自覚、ないんだ」
 くすくす面白そうに沖田が笑う。楽しくてたまらないという表情だ。
 斉藤が訝しげな視線を向けると、沖田は挑発するような笑みを口元に浮かべた。
「僕は遠慮しないよ」
「…………」
 真意を図るように、斉藤は無言のまま沖田の瞳を見据える。
「………文句があるのなら、俺ではなく副長に言え」
 沖田の瞳の奥に怒りを見つけて、斉藤は呟いた。
 言われた意味は理解できないが、彼が怒っていることだけは確かだ。
「倒す敵は多い方が燃えるんだけどなぁ」
 千歳緑の瞳を細めて、沖田は楽しそうに微笑む。
 斉藤は「そうか」と静かに返して、打ち水を再開した。
 ぱしゃぱしゃと水音が中庭に響いている。打ち水をしているのが千鶴ではない、というのがつまらない。だが、しばらくすれば戻ってくる筈だ。
 土方さん、早く千鶴ちゃんを返してくださいよ。
 千歳緑の瞳を土方の部屋の方へ向け、胸の内で呟く。
 さて、彼女が戻ったら、何を話そうか。
 日毎に募る千鶴への想いを抱いて、沖田は縁台へ腰を下ろす。少し木陰になっているから、待つのにちょうどよい。
「千鶴ちゃん、まだかな…」
 待っているだけというのは退屈でつまらない。けれど、千鶴を待つのなら、悪くない。
 沖田は瞳を閉じて、夏空の下、千鶴が戻ってくるのを待った。




【終】


初出・WEB拍手 再録にあたり改題・加筆
「01.制御不能(あまいきば・とめられない、5のお題)」


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