幻想夜 この地で暮らすようになって、今年で二度目の夏を迎えた。 生まれ育った江戸や新選組屯所があった京と比べると、ここは過ごしやすい気候だ。 慣れ親しんだ土地が恋しくないと言えば嘘になる。けれど、大切な人が一緒に居てくれるなら、どのような地でも構わなかった。 ここに訪れる人がいなくても、寂しいとは思わない。 世間から切り離されたようなこの地は、元号が明治になり二年が過ぎても、別段の生活変化はない。 何をするでもなく、ただ平穏に過ごすだけの日々だけれど、それこそが心地よくて、幸せに満ちている。 幸福な日々がいつまで続くかはわからない。けれど、一秒でも長く続いて欲しいと願う。 曖昧な関係は終わり、婚姻を結んだ今、ようやく夫婦としての生活が始まったのだから。 日が落ち、夜の訪れを告げる。 昔、雪村一族の住んでいたこの地は人里から隠れるように存在している上、平地というよりも山の中にある。そのため夜が来るのが早い。 勝手で夕飯の支度をしていた千鶴は、不意に目の前を横切った光に和え物を作っている手を止めた。 通り過ぎた光を追うと、その光は戸口の木板に止まり静かに光っていた。ずっとではなく、光ったり消えたりを繰り返している。 「…蛍だわ」 この地は水が綺麗だし草地もあるから、蛍がいても不思議ではない。けれど、家の中で見ることがあるとは思わなかった。 「……そう言えば…」 一人ごちて、千鶴は記憶の糸を手繰る。 花見や紅葉狩りは毎年しているけれど、蛍狩りに出かけた事はなかった。 ここしばらくは買い物を除いて、家の近く以外に出かけていない。 今の季節しか見られないし、誘ってみようかな。 千鶴は手早く和え物を作り器に盛り付ける。御飯と汁物、焼き魚はできているので、これで夕飯は完成だ。 それらをのせた膳を手に、千鶴は広間へ向かった。 夕食後、二人は家の近くを流れる小川に向かっていた。 蛍を見に行ってみませんか、との千鶴の誘いに総司が応じたからだ。体調も悪くないし、たまには夜の散歩もいいなと思った。それに、二人の想い出をできるだけ多く作っておきたい。いつか来る別れのあとに、千鶴から微笑みが消えてしまわないために。勝手だと思っている。けれど、彼女には泣き顔より笑顔が似合う。だから自分が居なくなっても笑っていて欲しい。彼女の涙を拭ってあげることも、慰めてあげることも出来なくなってしまうから。 周囲は森なので暗闇に包まれている。新月ではないが、月や星の明かりは木々に遮られ届いていないためだ。明かりは持っているが、足元をぼんやり照らせる程度だから、気をつけて歩くしかない。 「足元に気をつけて」 獣道に入ったので総司が注意を促した矢先。 頷こうとした千鶴は、足を滑らせた。 悲鳴を上げた千鶴だったが、転ぶことはなかった。手を繋いでいた総司が千鶴の身体を引っ張り上げたから。 「言ったそばから…」 呆れた顔で総司が溜息をつく。けれど、彼の千歳緑の瞳は、優しく千鶴を見つめている。 「ご、ごめんなさい」 「いいよ。慣れてるし」 「ひどいです、総司さん」 「でも、ほんとのことじゃない」 「どうせ鈍いですよ」 拗ねてふいっと顔を背ける千鶴に、総司はくすくす笑う。 そんな彼を恨みがましく見上げたあと、千鶴は「もうっ」と小さく呟いた。 「でもさ、どんな君も可愛くて好きだよ」 千歳緑の瞳が愛しげに細められる。口元に浮かぶ笑みはからかうようなそれと違い、とても優しい。 そんな顔をされて怒りが持続する筈がない。 「……総司さん、ずるい」 拗ねたような言葉と裏腹に、千鶴は白い頬をほんのり赤く染めて笑うのだった。 夜道を手を繋いで歩いていると、眼前に無数の小さな光が見え始めた。光の正体が蛍だと判断するのに時間はかからなかった。 「…私、こんなにたくさんの蛍が飛んでるの見たことないです」 感嘆の溜息が千鶴の柔らかな唇から零れる。 小川の側なら蛍がいるかもしれないと出かけてきたけれど、見られる保障はなかった。だから、二、三匹でも蛍が見られるだけで嬉しかったのに、まさかこんな光景を目にすることができるなんて。 まるで光の群舞だ。 「僕は今夜で二度目」 総司は昔を懐かしむように、千歳緑の双眸を僅かに伏せた。 張りのある落ち着いた声が耳の奥に甦る。 ――メスとオスで光り方が違うんだぞ―― もう二度と聞くことのできない、誰よりも大切で大好きだった人の声。 家の近くを流れる川辺で蛍が見られる、と土方に聞いた近藤に連れられて、多摩川に行った夏夜の想い出。 記憶の底に沈んでいた、懐かしい出来事。 けれど、胸が痛むことはない。 隣に千鶴が居てくれるから。優しさを、ぬくもりを、愛をおしみなくくれるから。 「一度目はね、近藤さんと土方さんと見たんだ」 声をかけるべきか迷っていた千鶴の耳に、穏やかな声が届く。 蛍の光に照らされる総司の横顔を見上げていると、千歳緑の瞳が向けられた。 総司は緩く首を傾げて微笑む。 「誘ってくれてありがとう、千鶴」 「そんな…」 とんでもないと左右に首を振る千鶴に総司はくすっと小さく笑った。 「千鶴と見られて嬉しいから言ってるのに」 「あ…。私も総司さんと見られて嬉しいです」 二人は見つめあって幸せそうに笑い、闇夜に金色の光が踊る中で、どちらともなく顔を近づけて口付けを交わした。 【終】 【夏企画】配布作品 戻る |