夢のかけら あの人の存在が自分の全て、だった。父であり兄であった、あの人だけが。 幼くして父を亡くし、数年後に母も帰らぬ人となり、生活がままならず、口減らしのために奉公に出された先で、あの人と出会った。 何も持っていなかった手の意味が、あの人と共にあった。 強くなりたいと願ったのは、あの人の傍にあるため。いつか武士となるという夢を描くあの人の【剣】でいたかったから。 家族の元を離れた自分にあったのは【剣】のみ。その【剣】に生きる意味を見出したのは、師匠であり父兄でいてくれたあの人がいたからだ。 自分以上に大切で、大好きな、あの人。 どこまでも、命がつきる瞬間まで、傍にあろうと決めた唯一人の人。 自分の存在意義は、ただあの人のためにあった。 けれど、守りたいと願っていたあの人は居ない。 最後に会って言葉を交わしたのは、あの人が甲府鎮圧へと出発する数日前の事。 「総司、気持ちは嬉しいが、今は休め。無理はいかんと松本先生にも言われているだろう」 江戸の松本良順の隠れ家で傷の静養をしていた時、ついて行くと告げた沖田に近藤は言った。 銀の銃弾で負った傷は深く、羅刹の力をもってしても中々癒えずにいた。その傷を負ってまで守ったのは近藤ではなく、ひょんなことから新選組に身を置くことになった千鶴だったけれど。普通に歩くことさえままならない身体でも、ついて行く事にためらいも迷いもなかった。だが近藤は、首を縦には振らなかった。 大阪で大敗し、井上や山崎を初めとする多くの仲間を失いながら、徹底抗戦を掲げ江戸へ戻ったのは、つい先日の事。 近藤が甲府へ進軍すると聞き、当然同行するつもりだったのに、近藤は許してくれなかった。身体を気遣ってくれたのだという事はわかる。それが近藤の優しさである事も。けれど、傍に居たかった。 近藤が療養先へ見舞いに来てくれた日の事は、今でも鮮明に思い出せる。 新選組という、自分の居場所であった場所の中心であった、近藤勇。 大切過ぎる思い出は、今も胸の内に押し寄せる。 一生消える事はない。 忘れる事もない。 近藤が処刑されたという報を土方から聞いた時、千鶴に惹かれていなければ、いま生きてはいない。 あの人のためにいつでも捨てられる命だったけれど、京で千鶴を守った時にそれはできなくなったのだと思う。 当時を思い起こさせるのは、気持ちを揺さぶるのは、使わなくなっても手放せない、大小の刀だ。 大小の刀は、夢のかけら。あの人の傍で追い続けた死ぬまで剣であるという、夢のかけら。 「………夢か…」 目を開けると、眩しい光が目に飛び込んだ。いつのまにか眠ってしまっていたらしい。 幼子を言い聞かせるように頭を撫でた近藤の大きな手は優しくて、夢とは思えなかった。こんなに生々しい夢を見たのは初めての事で、もしかしたらと考える。 不治の病でも治ると聞いて、千鶴を守るためにも、なにより剣であるために変若水を飲んだ。後悔はしていない。けれど、変若水と言えど不治の病である結核を治す事はなく、羅刹という力の代償として命を縮める事となった。だから、そう遠くない未来に逝くだろうとわかっている。 口にすれば千鶴が泣くとわかっているから、彼女には言わないけれど。 不意に自分の名を呼ぶ声がして、総司は草原から起き上がり、声がした方へ首を巡らせる。翡翠色の瞳に山吹色の小紋を着た妻の姿が映った。 「いつもの所にいないから……」 「心配した?」 緩く首を傾げる総司に千鶴は眦を僅かに吊り上げる。 「あたりまえじゃないですか!」 「そんなに怒らなくても――」 総司は言葉を最後まで紡げなかった。千鶴の黒い瞳が潤んだから。 いつもの所にいなかったから、彼女は自分がいなくなったのだと思ったのかもしれない。 そう考えると、謝罪の言葉はするりと口から零れた。 「ごめん」 華奢な手を引き傾いて倒れてくる細い身体を抱きしめれば、彼女は広い肩に顔を埋めた。 「……まだ駄目です…」 何が、とは聞かずともわかる。 「そうだね。君と僕の子供を見るまでは――」 まだ死ねない。 約束したのだ。 幸福にする、と。 だから、もうしばらくの間、待っていてください。近藤さん。 夢のかけらとして心から消えない人へ、総司は呼びかけた。 【終】 戻る |