二人でお茶を




 耳に届くのは障子を揺らす風の音、そしてざああと降っている雨音だ。昼間なので道場で稽古をしている隊士達もいる筈だが、雨音にかき消されて掛け声などは聞こえない。
 昼過ぎに降り始めた雨は弱まることなく、夕刻になった今も降り続けている。午前中は屯所の掃除を、午後は洗濯をしようと予定を立てていたのだが、雨が降ってきたので洗濯ができなくなってしまった。別段洗物が溜まっているというわけでもないのだけれど。千鶴は表向き土方の小姓となっているが、それほど頻繁に用事や遣いがあるわけではないので、それ以外は洗濯や掃除といった雑用をしている。食事当番でない日でも食事の支度を手伝ってはいるけれど、まだそのような刻限でもない。
 ゆえにこれといった仕事はなく、手持ち無沙汰になってしまったので、千鶴は近藤に書物を借りて読むことにした。所持する書物の数と種類の多さから言えば山南から借りるほうがいいのだが、彼が大阪出張の際に怪我を負って以来、千鶴は彼と二人になるのが恐い。あの時は沖田が来てくれたから助かったけれど、誰も助けに来てくれなかったらと思うと背筋が凍る。だからあの日以来なるべく二人きりにはならないようにしている。近藤はそれを察してくれ、快く書物を貸してくれた。


「千鶴」
 書物の面白さに没頭していると、不意に名を呼ばれた。視線を部屋の入口へ向けると、障子に人影が映っている。
 雨が降っていて刻限がはっきりしないが、そういえばそろそろ帰営する刻限かもしれないと思った。
 毎日ではないけれど、彼は時々部屋を訪れてくれる。どうしてかと問えば、「副長命令だ」とか「任務だからな」という言葉が返ってくるだろうから訊かないけれど。
 それでも二言三言でも話が出来ることは嬉しいし、楽しみになっていた。
「おかえりなさい、斉藤さん。雨の中お疲れ様でした」
 障子戸を開け千鶴が迎えると、斉藤は僅かに微笑んだ。
「ああ……ただいま」
 小さく付け加えられた言葉に千鶴は瞳を瞬いた。初めて、だ。斉藤が【ただいま】と言ったのは。
 斉藤との距離が少し近くなったのかもしれない、と自惚れてもいいだろうか。
 何気ない一言がこんなにも嬉しいことだなんて、今まで知らなかった。
「どうかしたか?千鶴」
 不思議な顔で首を傾げる斉藤に千鶴は首を横に振った。
「あ、いえ、なんでもありません」
「そうか。だが体調が優れぬ時はすぐに言え」
「はい。ありがとうございます」
 斉藤の温かな気遣いに千鶴の頬が緩む。さりげない優しさが嬉しい。
 他の幹部達に比べて表情の変化が乏しかったことなど今では嘘だったように、彼の表情は豊かになったように思う。その原因は千鶴にあるのだが、彼女はそれに気がついていない。
「千鶴、手を」
「手?」
 手を、と言われても、手をどうすればよいのだろう。
 言葉が少ないので意味がわからず、千鶴は小首を傾げる。斉藤はそんな彼女の右手を左手で取り、白く華奢な手の平に小さな巾着を乗せた。
「土産だ」
 ぽつりと告げられた一言に千鶴は驚きに黒い瞳を瞠って、ついで嬉しそうに笑う。
 どうしてとか何故とか、疑問は一切浮かばなかった。心の中は嬉しいという言葉一色に染まっている。
「ありがとうございます」
「甘い物が好きだと聞いたので、金平糖にした」
「金平糖なんて久しぶりです」
 嬉しそうに瞳を輝かせる千鶴に斉藤は瞳を細めて僅かに微笑んだ。
 こんなに喜んでもらえたら、買ってきた甲斐があったというもの。ここ数日落ち込んでいるようにみえたのだが、少しは元気になったようで、それもよかったと思う。
「あの、せっかくですから一緒に食べませんか?」
「すまない。副長から頼まれた任務があるのだ」
「いえ、いいんです。謝らないでください」
 申し訳なさそうに瞳を伏せる斉藤に千鶴は顔前で両手を振った。
 雑用しかない自分とは違って、幹部である斉藤は巡察に加えての仕事があるのは当然の事。それを失念していた自分に非があるわけで、彼は少しも悪くない。
「いや、だが…」
 刹那ではあったが、千鶴が落胆したのを見てしまった。それなのにこのまま退出するなど…。
「…明日では駄目か?」
「えっ?明日?」
「駄目か?」
 重ねて問われて、千鶴は慌てて首を横に振った。
「嬉しいです」
「では明日」
 満面の笑顔を浮かべた千鶴に斉藤は微かな笑みを零す。
 そして、千鶴と金平糖を食べながら過ごすのもいいが、おりしも明日は非番。どうせならば甘味処へ連れていってやろうと心の内で決め、任務をすべく山崎の部屋へ向かった。


 翌日。
「二人で茶をするのに屯所ではもったいないだろう」
 斉藤は至極真面目な顔で言って、千鶴を甘味処へ誘ったのだった。




【終】



戻る