陽だまりに包まれて




 雲ひとつない青空から柔らかな陽射しが降り注ぎ、木々の葉の隙間から覗く陽光がきらきら輝いている。青空を飛び回ったり、木々の枝で羽を休める鳥たちのさえずりが、尚一層の長閑さをかもし出していた。
 ぽかぽかと気持ちのいい一日になりそうだ。
 庭の片隅で今しがた洗ったばかりの着物や手拭いを干しながら、千鶴は頬を緩めた。
 光の眩しい夏や紅葉の美しい秋、冬の澄み切った空気も好きだが、陽だまりが心地よい春も好きだ。またこうして季節を感じられる生活に戻れたのは、元の生活には戻れないと諦めていた自分を支えてくれて、傍にいてくれて、そして愛してくれる人がいるからだ。そうでなければ、今ここに自分はいなかっただろう。変若水を飲まされ羅刹となったまま血を求めて彷徨うか、狂って殺されていたかもしれない。
 父の綱道から変若水を浄化する方法を探るために雪村の一族が住んでいた集落にたどり着いたのは、去年の五月――初夏だった。そして、父が死の間際にこの地の水が変若水を浄化できるかもしれないと教えてくれた。それから、雪村一族がかつて住んでいた集落で、総司と二人でひっそり住み始めた。
 年が明け、降り積もった雪はゆっくり溶けて大地に還り、緑が溢れる春になった。
 この地の清浄な水と澄んだ空気は羅刹となった二人の身体を癒してくれ、人としての生活ができるようになった。それに、変若水を飲んでも治ることのなかった総司の病も、目に見えて快復してきていた。労咳は不治の病と言われているが、完治して天寿をまっとうした人もいる。わずかな希望だけれど、千鶴は総司の労咳が癒えることを信じている。
 先のことはわからない。けれど、まだ一緒にいられる時間を与えてもらえた。これから二人の幸せを重ねてゆけることが、とても嬉しい。今までやりたくてもできなかったことを二人でできる。
 物干しに最後の着物を形を整えて干した千鶴は、ふと良いことを思いついた。きっと彼も喜んで一緒に行ってくれるだろう。
 ふふっ、と微笑みを零して、千鶴は総司がいる縁側へ向かった。


「あ、終わったの?」
 外から縁側へ行くと、総司は読んでいた書物から視線を上げた。退屈しのぎに入った倉で見つけた書物なのだが、それなりに面白い。だが読むのに飽きてきたので、千鶴が戻って来ないかなあと思っていた矢先だった。今少し遅ければ書物を投げ出し、寝転んでいた。
「はい」
 笑顔で頷く千鶴に、総司はにっこり笑って手招きする。請われるままに千鶴は彼我の距離を縮める。すると総司の腕が伸びてきて、あっという間に細い身体は彼の腕の中に閉じ込められた。
「いい抱き心地…」
 千鶴の身体の感触を確かめるように、総司の腕が背中に回される。肩口に顎を乗せてぎゅっと抱き寄せられる行為は、何度経験しても慣れない。抱きしめられるのは嬉しいのだが、心臓の鼓動が早まるのは抑えられない。
「…千鶴」
「はい?」
「好きだよ」
「えっ、あっ…私も総司さんが好きです」
 不意の告白に白い頬を林檎のように赤く染めて、千鶴は言葉を返す。
 そんな彼女に総司は面白そうにくすくす笑った。してやったりな顔をする総司に千鶴はむくれた。
「…総司さんはずるいです」
「けど、そんな僕も好きなんだよね」
 総司は翡翠色の瞳を細めて、千鶴の可愛らしい唇へ甘い口付けを落とす。触れるだけだった口付けは次第に濃厚なものへ変わっていく。唇を割って舌を絡め、吐息を塞ぐ深い口付けには、いまだに慣れない。
 つっと銀糸を引いて総司の唇が離れた時には、千鶴の息は上がっていた。蒸気して赤く染まった顔を見られまいと、千鶴は総司の胸へぽすんと顔をうずめた。総司は愛おしげに双眸を細めて、緑の黒髪を長い指に絡め取った。
 口付けだけで照れられると、手を出せないんだよね…。
 そう思った数は両手と両足を足しても足りない。二人だけで祝言を挙げて、夫婦になって間もなく一年が経つのだが、あまりにも千鶴が純粋なので、総司は手を出せずにいた。幾人もの命をこの手で殺めてきたのに、千鶴を壊してしまうかと思うと恐い。彼女に拒絶されたらと考えると手を出せないなんて、新選組で一番組組長を努めていた者が聞いて呆れる。
 君に言ったら、おかしくないです、と真剣な顔で言ってくれるんだろうね。言わないけどさ。
 総司は胸の内で呟いて、指に絡めた黒髪に口付ける。
「……髪、伸びたね」
「はい。伸ばそうと思って。…似合わない、ですか?」
 不安そうな顔をする千鶴に、総司は一瞬だけ瞳を瞠ってから和らげた。
「似合わない」
 言うと、千鶴は衝撃を受けたように茫然とした。そんな彼女に総司は楽しげに微笑む。
「嘘だよ。似合ってる。すごく可愛い」
 その言葉が本心からなのか見極めるように、千鶴は総司の瞳を見つめた。彼の瞳にからかいの色は見えない。けれど、からかわれた後なので、疑り深くなってしまう。
「まだ疑ってるの?」
「だって…」
「仕方ないな。じゃ、信じてくれるまで言うしかないね」
 にっこり笑って、総司は千鶴の耳元へ唇を寄せた。
「可愛くて似合ってる」
「…っ!」
 吐息とともに甘く囁かれて、千鶴は身体が震えた。口付けを交わしたあとのように、身体が熱を持ち始める。
「可愛いよ、千鶴」
 もう一度甘い声で囁かれて、千鶴は総司の胸を両手で押した。思い切り押したつもりが、彼は全くびくともしていなかったけれど。
「しっ、信じますっ!」
「そう?」
 僕は言い足りないけどなあ、と嘯く総司に、千鶴は顔と両手を左右に振って「十分です」と言った。
 顔は勿論、耳朶や首まで真っ赤に染めて狼狽する千鶴に、総司は満足そうに笑った。 
「それにしても、いい天気だね。なんだか眠くなってきた」
 こき、と首を鳴らす総司に、千鶴は彼を誘おうとしていたのだと思い出す。
「総司さん、お花見に行きませんか?」
「花見?」
「はい。そろそろ咲いてると思うんです」
 そう言えば、村外れに見事な枝ぶりの桜の大樹があった。いつもはそれほど遠出せずに日向ぼっこしているので、遠目に見ているだけだ。
「そうだね。行ってみようか」
「じゃあ、急いで用意しますね」
 とても嬉しそうに微笑むと、千鶴は草履を脱いで縁側から家に上がった。そして駆け足で家の奥へ姿を消した。
 彼女の後ろ姿を笑いながら見送った総司は、千鶴が戻るまで手持ち無沙汰になってしまったので、投げ出す寸前だった書物をぱらりと開いた。だが読む気にはならず、ぱらぱらと捲っただけで閉じて縁側の床へ乱雑に置いた。
「千鶴ー、まだぁー?」
 ほんの僅かしか経っていないというのに、総司は家の奥へ向かって声を上げた。夫婦になったからと言って、総司の性格が変わるわけでもない。
「まだですよー」
 律儀に返された言葉に総司は喉の奥で笑った。まだに決まってます、と呆れた声が返ってくるのを予想していたのだが、意外な言葉が返ってきたのが面白い。
 ほどなくして「お待たせしました」と姿を見せた千鶴の手には、風呂敷包みがあった。
「それ、なに?」
「え?お弁当ですよ?」
 不思議そうな顔で首を傾ける千鶴に、何故用意に時間がかかったのか納得した。てっきりお茶の用意だろうと思っていたので、「まだ?」と言ったことを悪かったなと思った。
「ごめん」
 突然謝られて、千鶴は驚きに黒い瞳を瞬いた。何か謝られることがあったかな、と記憶を手繰る。そして理由に行き着いた。
「私も言葉が足りなかったですよね。だからおあいこです」
 微笑む千鶴に総司は瞳を瞠って、適わないなと呟いて苦笑した。
 千鶴が持っている弁当を総司は代わりに持って、二人は花見へ出かけた。


 道すがら話しながら歩いていると、四分の一里強の距離はすぐだった。
「満開ですね」
 頬を緩めて桜を見上げる千鶴の横顔に、総司はくすっと笑った。とても嬉しそうで、行こうと言って正解だったと思う。
「千鶴は桜が好きなの?」
 彼女の好きなものをあまり知らないことに気づいて、なにげなく訊いた。
「好きです。桜も椿も、どれも好きです」
 その答えに、ああ、やっぱり女の子だなあ、と総司は思った。そして、千鶴らしい、とも。
「総司さんは桜、好きですか?」
「嫌いじゃないよ」
 そう、嫌いじゃない。
 綺麗な景色や風景に心を奪われる、ということは今でもない。唯一、心を奪われ捕らわれているのは、目の前で微笑んでいる千鶴だけ。ずっと武士として生きてきたから、風流なことには縁が無い。けれど、千鶴が隣にいるなら、花を愛でるのもいい。
「よかったです」
 安心したように微笑んだ千鶴は、近くに行きましょう、と総司の手を引いた。
 幹の根元の近くに、千鶴は大きめの布を広げた。着物が汚れないようにと持ってきた敷物だ。本当は茣蓙がよかったのだが、普段使わないので倉の片隅に放置したままになっている。今度使えるように手入れをしておこう。
「総司さん、花見酒しませんか?」
 千鶴の言葉に、総司は翡翠色の瞳を軽く瞠った。風呂敷の中には酒瓶が入っていたのか。道理で弁当にしては重いと感じた筈だ。
 千鶴は酒に強い方ではないから、晩酌に付き合ってくれても飲むことは滅多に無い。だから、自分用に用意してくれたのだろう。彼女の優しい気遣いは、素直に嬉しいと感じる。
「……酒もいいけど、眠くなってきたから膝貸して」    
 そう言うやいなや、千鶴が返事をする前に総司は彼女の膝に頭を乗せて寝転がってしまう。
 瞳を閉じた総司の耳に、「仕方ない人ですね」と苦笑まじりの柔らかな声が届く。
 やがて柔らかな陽射しと千鶴の体温を感じながら、総司は眠りへ落ちた。
 総司の口元から聞こえ始めた寝息に、千鶴は幸せそうに微笑んだ。なにげなく彼の煤竹色の髪にそっと触れると、手触りがよかった。柔らかくて、まるで猫の毛並みのようだ。
 猫みたい、なんて言ったら総司さん怒るかな?
 胸の内でごちて、ふふっと微笑む。
 指を離すのが名残惜しくて、少しの間総司の髪を弄っていると、不意に小さな欠伸が出た。寝ちゃだめだと思ったが、心地よい陽気には勝てず、千鶴は眠りの中へ意識を手放した。


 千鶴が眠ってしまったわずかあとに目を覚ました総司は、舟をこいでいる妻の姿を視界に映して小さく笑った。
 このまま寝かせておいてもいいけれど、それだとつまらないな。
 そう考えて、総司は悪戯を思いついた。
 自分がしてもらっていたように膝枕をしたら、起きた時にどんな反応をするだろう。千鶴の反応は予想外なことが多いから楽しみだ。
 まずは千鶴を起こさないように起き上がる。
 さて、千鶴を起こさないように膝枕するにはどうしようか、と考えた刹那。彼女の身体がぐらりと傾いた。その身体を抱きとめて、彼女がまだ寝ていることを確かめた総司は、悪戯を実行した。
 それから数刻後。
 千鶴の睫毛が震え、黒い双眸がゆっくりと開かれた。
「……ん……総司、さん?」
「おはよう、千鶴」
 にっこり微笑むと、千鶴は瞳を瞬いて、状況が理解できたのか、勢いよく起き上がった。
 聞きたいことは色々あるのに、驚きすぎて言葉にならない。
「目を覚ましたら君が寝てて、起こそうと思って身体を起こしたら君が倒れてきたんだ」
「そっ、そうだったんですか?ごめんなさい」
 本当のことも含まれているが、嘘も混じっている。初めから起こすつもりなどなく、悪戯を仕掛けるつもりだった。そして偶然にも千鶴が倒れてきたので、労することなく、悪戯を仕掛けられた。だが総司はそんなことを言わないし、おくびにも出さない。千鶴は根が素直なので、人を信じて疑わない。それに彼女は、出会った当初から警戒心というものが薄い。屯所で与えられた部屋で無防備に畳の上に転がって寝ている所を目撃したのは、数知れない。
「いいよ、気にしないで。お詫びならちゃんともらうし」
 総司は言い終わらないうちに千鶴を引き寄せて、腕の中に閉じ込めた。
 右手で彼女の後頭部を捕らえ、左手で顎を捕らえると、可愛らしい唇を熱く深い口付けで塞いだ。
 空から時々桜の花弁が舞い落ちてくる満開の桜花の下、陽だまりに包まれて二人きりの甘い時間がゆっくり過ぎていった。




【終】



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