誓いの口付け 漆黒の空に白い月が輝いている。 静寂な闇の中、風の音とそれに揺れる木々や草の音、そしてに小さな泣き声がする。 父と兄を亡くした悲しみより、傍にいてくれる愛おしい人が無事でいてくれることが嬉しくて。溢れる涙はとめどなく流れた。 しばらくの間、千鶴は温かい腕に包まれて泣いていた。 「………大丈夫?」 優しく気遣う声に、千鶴は小さく頷いた。 「…すみません。着物、濡らしてしまって」 「構わないよ。僕は君の方が大事だから」 耳をくすぐる甘い声に、千鶴は頬が急激に熱くなってくるのを感じた。宇都宮で抱きしめられた時以上に恥ずかしい。 「……嬉しいです」 素直に気持ちを口にして、千鶴は窺うように沖田を見上げる。黒い瞳に優しい微笑が映った。自然に千鶴の顔にも笑みが浮かぶ。 「君が平気なら行こうか」 その言葉と共に温もりが離れていく。少しの寂しさに千鶴の瞳に憂いが浮かぶ。そんな彼女に気づいた沖田は、小さく笑った。そして華奢な手を包むように手を繋いだ。 細められた翡翠の瞳は何もかもわかっているようで、気恥ずかしくなった。けれど彼の手はとても優しいから、甘えることにした。 月以外に頼るものがない闇の中、二人は一軒の民家にたどり着いた。 雪村一族が住んでいた集落だが、家屋は西国藩に焼かれてしまっていて残っていなかった。だが、綱道がこの地で変若水の研究を続けていると千姫から聞いていたので、彼が住居として使っていた家があるのではないかと、二人は村の中を歩いた。そして一軒の家を見つけたのだった。 「………ここ、は…」 千鶴は周囲を見回した。闇夜で視界に映るものは限られている。けれど、周りの風景と、なにより目の前の家に見覚えがある気がした。昨日夢の中で見た家と全く同じだ。 「……もしかして、千鶴ちゃんの住んでいた家?」 落ち着かない様子で視線を彷徨わせる千鶴に、沖田は静かな、だが確信めいた声で訊ねた。 「はっきりと覚えているわけじゃないんですけど……」 千鶴の記憶にある家は、赤々と燃えていた。炎が包んでいたのは家だったのか、庭先だったのかわからない。幼い自分にわかったのは、ここではもう暮らしていけないということだけ。そして、父母はその時に命を落としたのだろうということ。 「…たぶんそうです」 懐かしいのか、悲しいのか、自分でもよくわからない。 「……入ってみよう」 見たところ崩れ落ちる心配は無さそうだし、なにより自分達には居場所が必要だ。この地で生きていくために。 埃が積っていて、所々に蜘蛛の巣がはっている。ずいぶん長い間放置されていたのだろう。 掃除や片付け、入用な物の買出しは明日以降にやることにして、二人は手分けして火打箱を探した。 「…どう?あった?」 居間から届いた声に、台所を探していた千鶴は首を横に振った。 「こっちには見当たらないです」 洗えば使えそうな鍋を見つけたが、目当ての物はここにはない。他には急須や湯のみ、皿などの食器があるだけだ。どれもまだ使えそうだが、今必要な物では無い。 数秒後、飾り棚を探していた沖田は、うっすら埃を被った火打箱を見つけた。埃だらけだが、道具は揃っているので問題なく火が点けられるだろう。 「千鶴ちゃん、あったよ」 「本当ですか?」 千鶴は開けていた棚戸を閉めて、沖田のいる居間へ向かった。 蝋燭に火を点け蜀台に差すと、周囲がぼんやりと明るくなった。蝋燭の芯がじじっ燃える音が部屋に響く音が、やけに大きく感じる。 押入れから見つけた布で畳を拭き、二人は並んで座った。 燃える炎から、千鶴は隣に座る沖田へ視線を向けた。 「……あの、沖田さん」 「なに?」 「昨夜のことなんですけど…」 白い頬を赤く染めて、千鶴は僅かに沖田から視線を外した。彼女が何を言いたいのか沖田はすぐに理解したが、気づかない振りをした。 「昨夜のことって?」 にっこりと微笑む沖田に千鶴は非難の色を浮かべた瞳を向けた。だが、それぐらいで動じる沖田ではない。 「…沖田さんはずるいです」 「僕のこと、嫌いになった?」 「…嫌いになんてなれません」 本当に意地悪な人だ。自分が「嫌い」と言わないのをわかっていて、訊くのだから。 頬を膨らませて拗ねる千鶴に「ごめん」と殊勝な言葉が聞こえた。けれど、彼に反省の色は見えない。「怒った?」なんて言いながら、くすくす笑っている。 「……千鶴」 不意に名を呼び捨てで呼ばれ、抱きしめられた。 どきんどきんと高鳴る鼓動が耳をつく。頬がすごく熱い。 彼の顔が見られずに俯くが、それは許してもらえなかった。沖田は長い指を千鶴の顎にかけ、自分へ向けさせる。 真摯な光を宿す翡翠の瞳と視線が絡まって、心臓がどくんと音を立てた。 「沖田、さん…」 「【総司】」 「え?」 「僕達は夫婦なんだから」 「夫婦…」 呟いた千鶴の耳と首筋が瞬く間に赤く染まる。 「そうだよ。昨夜ずっと一緒にって、約束したよね」 「はい…」 先程言おうとした言葉を言われて、千鶴は肯定した。 ずっと一緒にいたいと告げた自分に、彼は「君はずっと僕と一緒に」と言ってくれた。 混乱する頭で必死に言葉を繋ぎ合わせた千鶴は、昨夜の「一緒に」が結婚の約束だったのかもしれないということに思い当たった。自分が思い描いていた求婚とはかけ離れているけれど。 「不満そうだね」と呟いて、沖田は楽しげに微笑む。 まさか声にしていたのだろうかと僅かな焦りが千鶴の顔に浮かぶ。だが彼は気分を害した様子はない。 「千鶴、僕と結婚してくれる?」 優しく微笑まれて紡がれた言葉に、千鶴の瞳が潤んだ。 瞬きをしたら涙が零れてしまいそうだ。 どうしていつもこんなに心を満たす言葉をくれるのか。 意地悪なのに、本当はとても優しい彼が愛おしい。 喉の奥が嬉しさで詰まって、言葉が出てこない。 「…返事はしてくれないの?」 意地悪なことを言いながらも、彼は優しく微笑んでいる。 「…総司さん」 名を呼ぶと、沖田は嬉しそうに微笑んだ。彼の微笑みに心の中が幸せで満たされていく。身体中がふわふわと心地よく満たされる。 「なに、千鶴」 「……ずっと…離さないでくださいね」 沖田は千鶴の囁くような声に微笑みで答えて、柔らかな唇へ優しい口付けを贈った。 そして、甘い口付けを贈った唇で、沖田は想いを囁く。 「…好きだよ、千鶴」 「総司さん」 嬉しそうにふわりと微笑む千鶴の髪を、沖田は長い指で愛おしげに梳く。 「君は?」 「…総司さんが好きです。大好きです」 「ありがとう、千鶴」 翡翠の瞳を細めて微笑んで、細い身体を腕の中に閉じ込める。 夜の帳が抱き合う二人を優しく包んでいた。 【終】 戻る |