薄霧のような心 しんしんと雪が降っている。 夕刻から降り始めた雪が大地を真白に染めてゆく。 穢れ無き白さに、千鶴は小さな溜息を零した。吐き出した吐息は白く染まり霧散する。 心の中にも雪が降るのなら、自分の心に降り積もって欲しいと思う。 彼を人ならざるもの――羅刹にしてしまったのは自分の存在があったから。 自分が彼を慕っていたために、彼は羅刹になってしまった。 沖田の部屋へ自分が行かなかったら、彼は羅刹にならなかっただろう。 けれど、千鶴の兄である薫に差し出された変若水で羅刹になって、部屋に押し入ってきた羅刹から身を守ってくれた。それが自分のためではなく彼自身のためだとわかっているが、嬉しかったと思う自分がいる。 そんな浅ましい自分に嫌気が差す。 千鶴はぎゅっと唇を噛み締めて、立てた膝に顔をうずめた。 薩摩に属している鬼たち――風間たちが不動堂村の屯所を襲撃してきたのは、昨日の夜半。新選組は三月に隊を離脱した伊東一派を粛清するため、幹部は勿論、大半の隊士たちが出払っていた。その時機を待っていたとばかりに、手薄になった屯所を風間たちが襲撃したのだ。 屯所の警備に残っていた山南、井上、島田、鬼の襲撃を報せに来た山崎、数人の平隊士、そして隊内で新撰組と呼んでいる羅刹隊で迎え撃った。 だが、鬼たちの攻撃はすさまじく、数刻とたたずに屯所の門前は血に染まり、その血に羅刹たちが狂い始めた。狂ってしまった羅刹は敵味方の区別なく襲ってくる。 それを見た千鶴は体調不良で休んでいる沖田のことが気にかかり、彼の様子を見に屯所へ引き返した。万全の体調の彼なら心配はないかもしれないが、彼は臥せっている。そんなところへ羅刹が現れたらと思うと気が気ではいられない。 千鶴は脇目もふらず、沖田の部屋へ駆け込んだ。 「沖田さんっ!」 すぱんと勢いよく襖を開けた千鶴の瞳に、戦支度を整えた沖田の姿が映った。 彼が無事だったことに安堵し、千鶴はほっと息をついた。 「この騒ぎ、何があったの?」 「風間さんたちが襲ってきたんです」 千鶴の言葉に、沖田の翡翠の瞳が鋭さを帯びて細められた。池田屋での借りを返す機会が巡ってきたのだ。 「やつらはどこ?」 沖田の声は静かだったが、怒気を含んでいるのを肌で感じた。 言うべきか否か千鶴が迷っている時だった。部屋の障子を蹴り壊し、数人の羅刹が襲い掛かってきた。 迎え打つべく刀を構えた沖田だったが、刀は羅刹に届く前に畳の上へ落ちた。 千鶴の腕では倒れる沖田を守って羅刹と相対するのは不可能だ。このままでは二人とも殺されてしまう。 そこへ現れたのが薫で、千鶴の制止の声は沖田に聞き入れてもらえず、彼は変若水を飲んでしまった。薫にだまされた形で。 「……沖田さん…」 「なに?」 耳に届いた声に、千鶴は心臓が口から飛び出たかと思うほど驚いた。 条件反射で声がした方へ視線を向けると、柱に背を預け、微笑んでいる沖田がいた。 ちょうど彼のことを考えていた千鶴は激しく動揺してしまう。 「おきっ…なっ、いっ…」 呂律の回らない千鶴に沖田は喉の奥でくくっと笑った。驚くとは思っていたが、予想以上の驚きに笑いがこみあがる。 夜なので笑いが零れないように口元を手で押さえ、沖田はしばしの間笑った。 「……千鶴ちゃんは見てて飽きないよ、ほんと…」 まだ笑い足りないらしく、微かに肩が揺れている。そんな彼にさすがの千鶴も僅かにむっとした。 「…笑いすぎです」 千鶴が頬を膨らませて抗議するが、沖田は翡翠の瞳を細めて楽しそうに言った。 「千鶴ちゃんが面白いからいけないんだよ」 「………」 黙りこむ千鶴に沖田は小さく笑って、彼女の隣へ腰を下ろす。 沖田は片胡坐を掻いて雪の降り積もる庭を見つめながら、世間話でもするように口を開いた。 「昨夜のことでも考えてたの?」 その言葉に千鶴の細い肩が小さく震える。千鶴はごくんと息を飲んだ。 嘘が上手くないのは自分でもわかっている。 肯定したら彼は怒るかもしれない。 どういう反応をされるのかがわからなくて、それがとても恐い。 だが、嘘を言ってもすぐに見抜かれるだろう。 「………どうしてわかったんですか?」 沖田の顔を見ては言えなくて、俯いたままぼそぼそと言葉を紡いだ。 「やっぱりね」 千鶴の問いに答えず、沖田は呆れた顔で溜息をついた。 「言っておくけど、変若水を飲んだのは僕だよ。君が気にすることじゃない」 千鶴は顔を上げて、沖田を見た。だが、翡翠の瞳は庭に向けられたまま動かない。 突き放されているようで、言いようのない不安が心の中に広がっていく。 千鶴は自分を奮い立たせるように拳を握った。 「私のせいだから、気にしないなんて出来ません。私が沖田さんの部屋に行ったから、沖田さんを慕ってしまったからっ」 昨夜の光景を思い出す度に震えが止まらなくなる。どれほど後悔しようとも、時は戻せない。 全ての咎は、罪は、私にあります。 私のせいで沖田さんの人生を壊してしまったんです。 泣いてはいないものの、泣き出す寸前のような震えた声で言葉を紡ぐ千鶴に、ようやく沖田の瞳が向けられた。 「君が後悔しているのは、僕の部屋に来たこと?」 「…え?」 不意に問われて、わけがわからず沖田の顔を見つめるが、千鶴の視線に彼は答えない。 「それとも、僕を好きになったこと?」 「沖田、さん?」 「ねぇ、どっち?」 沖田は千鶴の白く細い手首を捕らえ、ぐいっと引き寄せた。強い力で掴まれて、千鶴は痛みにほんの僅か顔を歪めた。 恐い程に真剣な翡翠の瞳に見つめられて、千鶴は息が止まりそうになる。瞳の鋭さに斬られてしまいそうだ。 「…【どっちも】と【選べない】は無しね。どっちか選んで」 口元に弧を描き、微笑みながら千鶴の逃げ道を塞ぐ。 二人の間に長い沈黙が落ちた。 沖田は千鶴を見据えたまま、眉ひとつ動かさない。その顔が彼の本気を伝えている。 重い沈黙の中、千鶴は沖田への答えを必死に考えた。 部屋に行ったことを後悔しているのか。それとも、彼を好きになってしまったことを後悔しているのか。沖田が何を考えて訊いているのかはわからないが、自分の心に正直になって答えなければいけない気がした。だから、千鶴は選んだ。どちらかを選ばないといけないのなら、選ぶのは前者。 「………沖田さんの部屋に行ったこと、です」 千鶴がそう言うと、沖田は一瞬だけ頬を緩めた。 痛いほどに強く掴まれていた手首がふっと軽くなる。だが、じんじんする手首より、沖田の様子の方が千鶴は気になった。見間違いかと思うほど刹那だったが、彼は少し微笑んでいた。 「それならよかった」 「…よかった、ですか?」 沖田が何を言いたいのかまるでわからず、千鶴は戸惑いが隠せない。 「うん。君を斬らずに済んだから」 その言葉に益々わけがわからなくなる。もうひとつの方を答えていたら斬られていたということになるが、それが意味するところはなんなのか。 「……どうして、ですか?」 「教えて欲しい?」 「はい。教えてください」 沖田はにっこり微笑むと、千鶴の細い身体を抱き寄せた。 「こういうことだよ」 千鶴の耳元で甘く囁いて、白い首筋へ唇で触れ、強く吸い上げた。白い肌に赤い花が咲く。 「おおお沖田さんっ!?」 沖田が口付けた箇所に手を遣りながら、千鶴は耳朶まで真っ赤に染めた。 雪の白さで明るい中、真っ赤になった千鶴が慌てふためく様に、沖田は翡翠の瞳を細める。 「これでわかったよね」 「えっ、あの、何がですか?」 「僕も君と同じだってことだよ」 沖田は千鶴の身体から腕を離して立ち上がる。 「じゃ、風邪を引かないうちに戻ろうか」 「えっ?」 「気分がいいから部屋まで送ってあげるよ」 「はあ」 「何、その返事。不満なわけ?」 「滅相もありません!」 不機嫌に眉根を寄せる沖田にかぶりを振って、千鶴はすっくと立ち上がった。 「あんまり大きな声を出すとみんなが起きちゃうよ」 千鶴ははっとして口に手を当てた。 すっかり忘れていたが、今は夜だった。耳を澄ますが物音はしないので、千鶴はほっと息をついた。 部屋に続く廊下を二人は無言で歩く。 「……千鶴ちゃん」 「はい」 小声で名を呼ばれ、千鶴も時刻と周囲を気遣って、沖田と同じく声を潜めて返事をした。 沖田を見上げると、翡翠の双眸と視線が絡まった。先程のような鋭く冷たいものではなく、いつもと同じ瞳。 「僕は後悔して無いよ」 なにが、とは訊かなくてもわかる。 変若水を飲んだことを差しているのは、すぐに理解できた。 だが、千鶴には何も言えない。「はい」と言える立場ではない。 何も言えない千鶴を気にすることなく、沖田は言葉を続ける。 「だから、君も後悔しないで」 ――…僕を好きになったこと 囁かれるように紡がれた言葉は、やっと聞き取れる程小さかった。 昨夜は「好きじゃない」と冷たく言っておきながら、好きでいろと沖田は言う。 どれだけ一緒にいても、何を考えているのかさっぱりわからない。 飄々としていて、気まぐれで、我侭で、冷たくて。それなのに優しくて。 本当にひどい人だ。 それでも嫌いにはなれないから、千鶴は「…はい」と頷いた。 想いが届かなくてもかまわない。 想うことを許された。それだけでいい。 心の靄が少し晴れた気がする。けれど、もしかしたらまた考えてしまうかもしれない。 「……沖田さん、もしまた……」 「…また、なに?」 「いえ、なんでもないです。すみません」 沖田は横目で千鶴を見て、ふぅと息をつく。 この子と出逢ってから、ずいぶんと過保護になった気がする。 だが、面倒だけれど、不思議と嫌では無い。 「その時はまた言うよ」 素っ気無い一言だったけれど、とても優しい声だった。 【終】 戻る |