雪の日でも




 銀色に輝く月は厚い雲に覆われ、姿を隠している。
 月に代わり夜空を照らすのは、細かな白いもの。闇の中で踊るように舞い、地上へ降り注ぐ。 血生臭いものを消すように、大地を白く染めていく。
 夜闇の中で雪だけが、存在を主張するかのように輝いている。
 真夜中に降り始めた雪は、一晩で京の町を白く染めるほどに降り続けた。


「……ん……明るい?」
 布団の中で寒さに身震いした千鶴は、不思議な明るさに黒い瞳を瞬いた。
 冬は日が昇るのが遅い。朝と呼べる時刻であってもほんのり薄暗いのだが、今はそれが感じられない。
 千鶴は身体を起こして、部屋の障子を開いた。
 冷えた空気が肌に触れたが、それは気にならなかった。瞳に映った景色に目を奪われてしまったから。
「……うわあ、真っ白」
 吐き出された息が白く染まり、宙に溶けて消える。
 千鶴は夜着姿なのも忘れて、目の前の景色に魅入った。
 江戸でも冬になれば雪が降るから、雪が珍しいわけではない。けれど、京で見る雪は今日が初めてだ。
 屯所に来てもうすぐ一ヶ月になるけれど、千鶴は外出の許可が出ていないため、市内には出ていない。だから、珍しいものではなくても、日常にある変化が嬉しいと感じる。
 不意に昔の記憶が脳裏に蘇った。あれはまだ父が家にいた頃のこと。江戸では珍しく大雪が降った時だった。
 近所の友達数人と雪合戦をして遊んだことがあった。冷たい雪で雪球を作って投げ合う。ただそれだけの遊びが無性に楽しかった。雪まみれになって、数刻も遊んでいた。懐かしくて、楽しい思い出。
 さすがに大きくなってから雪合戦はないかな。
 口の中で小さく笑ってから、ふと千鶴は思った。
 ここの人たちならいまでも楽しんで雪合戦をするかもしれない。
 平助君と原田さんと永倉さんが遊んでいる所に沖田さんが突然割り込んで、四人がはしゃぐ様を呆れたように斉藤さんが見ていて、「オメーら、なにガキくさいことしてやがる」なんて土方さんの怒鳴り声がして、そんな土方さんを近藤さんが宥めてる…とか。
 そんな光景を想像してしまって、千鶴はふふっと笑った。
「風邪を引くぞ」
「きゃっ!?」
 不意に聞こえた声に、千鶴は飛び上がる程驚いた。
 新選組の隊士達――中でも新選組幹部達は突然現れるので、いつも驚かされる。ちなみに、約一名、わざと気配を殺して千鶴に近づく人物がいるのだが、千鶴が知る由もない。
屯所に身を寄せるようになってから、気配に敏感にならなくては、と思った数は両手では足りない。それでも道場に通っていたおかげでましだと幹部達は評しているのだが、千鶴自身はそれに気づいていない。
「斉藤さん、いつからいたんですか?」
「今来たばかりだが……」
 正面から向き直った千鶴に、斉藤は僅かに硬直した。けれど、千鶴は彼の様子に全く気がつかない。
 不思議そうな顔で首を傾げる千鶴に、斉藤は僅かに視線を泳がせた。
「斉藤さん?」
「……着物が肌蹴ている」
 視線を下げて自分の姿を見た千鶴は小さな悲鳴を上げて、慌てて胸元を押さえた。
「すっ、すみません。これからは気をつけます」
 顔を真っ赤に染めて、千鶴はぺこりと頭を下げた。
 見られた相手が千鶴が女であることを知っている斉藤だったからよかったが、もし平隊士だったら騒ぎになっていただろう。彼女の部屋の周囲は幹部達の部屋しかないが、平隊士が通らないとは言い切れない。
 千鶴の素直な謝罪に、斉藤は「ああ」と短く頷いただけで、説教はしなかった。自分の非を認めた人間に対してはその必要が無い。千鶴を見つけたのが他の幹部達だったらすんなりといかなかったことを思えば、斉藤だったのは幸運と言える。
「そろそろ部屋に戻れ。風邪を引く」
「はい」
 再度注意を促されて千鶴は素直に頷いた。そして斉藤に微笑んだ。
「ありがとうございます、斉藤さん」
 心配してくれた気遣いに感謝して頭を下げると、千鶴は部屋の中に入った。
 障子を閉めて、千鶴はその場にへなへなと座り込む。なんとか平静を保つことができた安堵と、僅かとはいえ胸を見られてしまった動揺で、立ってはいられない。
 …絶対に見られた…よね。
 恥ずかしさが今頃襲ってきて、自分の身体を抱え込むように丸くなる。普段は冷静沈着な斉藤が視線を泳がせていたくらいだ。見られたのは確実だろう。自分の迂闊さが原因なのは明白だが羞恥は別物で、動悸が落ち着くまで暫しの時間を要した。



「お茶が入りましたよ」
 盆の上に六つの湯のみを乗せて、千鶴は広間へ足を踏み入れた。
 だが、朝食後のお茶を広間にいる人数分と自分の分を淹れて戻った千鶴は、がらんとした室内に瞳を瞬いた。広間から台所へ行く前は五人いたのだが、いつのまにか一人になってしまっている。
「他の方はどうされたんですか?」
 広間に唯一人いる斉藤に問いかけながら、千鶴はほうじ茶を注いだ湯のみを手渡した。
 斉藤は礼を言って湯のみを受け取ると、一口啜った。熱すぎず冷めすぎていない茶は、芯から身体を温めてくれる。
「……お前の淹れる茶はうまいな」
 頬を緩める斉藤に千鶴は嬉しそうに微笑んだ。屯所内で千鶴が役に立てることなどほとんどない。土方から「お前は何もしなくていい。部屋でじっとしていろ」と言われたけれど、居候の身でじっとしているのは辛かった。だから自分にできることを探した。そして見つけたうちのひとつが、食後に茶を淹れること。感謝されたくてしているわけではないが、喜んでもらえるのは純粋に嬉しい。
「ありがとうございます」
「みなは庭に出た」
 唐突に言われた言葉に千鶴は瞳を瞬いて、先程の質問の答えだと気がついた。
「庭、ですか?」
 お茶をみんなの所へ持っていくべきだろうか。
 どうしよう、と悩む千鶴に気づいた斉藤は淡々とした口調で言った。
「巻き込まれたくないのなら、ここにいろ」
 巻き込まれる?何にだろう?
 意味がわからないまま、千鶴はふと浮かんだ疑問を斉藤へ投げた。
「斉藤さんはいかれないんですか?」
「あまり興味がない」
「はあ…」
 やはりわからずに千鶴が首を傾げた刹那。
「逃げるなーーーっ!!」
 突然聞こえた怒号に千鶴は肩をすくませた。
「今の声は…」
「平助だな」
 驚いている千鶴とは対照的に斉藤は冷静な顔を崩さないまま言った。
「逃げなきゃ当たっちまうじゃねーか」
 ついで聞こえたのは、永倉の声だ。その声に重なって、原田の声も聞こえる。
 おりゃー、とか、くらえ、とか聞こえる声は幻聴ではないだろう。
 そして彼らの声が聞こえるのは、庭の方からだ。
 今朝、雪の降り積もった庭を眺めながら想像していた光景が、ふと脳裏に浮かぶ。
 まさか…ね。そんなわけない。私の思い違いよ。
 でも土方さんは大阪に出張中だし、近藤さんは気づいても注意はしないだろうし。
 考えれば考えるほど否定する要素がなくなり、もしかしてという思いが強くなる。
「斉藤さん、もしかしてみなさんは――」
 千鶴が斉藤に訊こうと口を開いたが、言葉はがらりと開いた戸の音で掻き消された。
 戸の方へ千鶴が視線を向けると、そこに沖田がいた。彼はいつものように穏やかな微笑みを浮かべている。
「千鶴ちゃんもおいで」
 沖田は広間へ入り、千鶴の前にしゃがみこむとにっこり笑って言った。
 彼の誘いに千鶴はすぐに返事ができなかった。戸惑いを顔に貼り付け、千鶴は隣にいる斉藤に瞳を向けた。が、彼女の黒い瞳に映ったのは斉藤の顔ではなく、豆のできた大きな手。
「僕は君に言ってるんだよ。それに、斉藤君は来ないよ」
「…ですよね」
 逃げ道がないことを悟った千鶴は、乾いた笑みを浮かべた。もっとも、逃げ道があったとして、沖田から逃げることはできそうにない。屯所に来て一ヶ月で、それは身に染みていた。
「ふふっ、潔いね。じゃ、溶けないうちに行こう」
「これだけ積ってたらすぐには溶けないと思いますけど」
 きょとんとした顔で言うと、沖田は微笑みを深めた。だが彼は答えない。その代わりに千鶴の手を取って引いた。
 引かれるままに立ち上がった千鶴は、重心を崩し倒れそうになる。床に顔から落ちそうになって覚悟したが、痛みは訪れなかった。
「大丈夫?」
 千鶴の黒い瞳に映ったのは床ではなく、肌の色。その肌が沖田の胸板だとわかった千鶴は、顔を赤く染めた。
「だ、大丈夫です。すみません、ありがとうございます」
「どういたしまして」
 にっこり微笑まれて、心臓が跳ねた。
 どきどきしているのは、抱きとめられて気恥ずかしかったからだと言い聞かせても、なかなか治まらない。
 …どうしてこんなにどきどきしてるの?
 今朝薄着で外に出たから、風邪を引いちゃったのかな。
 見当違いの方へ考えを進めている千鶴を、斉藤の声が引き戻した。
「…健闘を祈る」
 有難いような、有難くないような励ましをもらって、千鶴は沖田に攫われていった。
 二人がいなくなり、斉藤だけになり再び静寂に包まれた広間へ、一人の男が顔を出した。
「おや?斉藤君一人かい?」
 声をかけられた斉藤は顔を広間の入口に向け、こくりと頷いた。
「雪村君もいるかと思ったんだが」
「総司に攫われて行きました」
 彼女を気の毒に思った井上は、複雑そうな顔をした。


 広間で斉藤と井上が噂をしている頃、千鶴は中庭へ着いていた。
「おーい、千鶴ーっ」
 藤堂が大きく手を振っている姿が千鶴の瞳に映った。千鶴が手を振り返そうとした刹那、藤堂の頭に雪球が直撃する。
「やってくれたな、新八っつぁん!」
「油断大敵、ってか」
 はっはっは、と高らかに笑う永倉目掛けて、雪球が飛ぶ。飛来した雪球は彼のわき腹に当たった。
「おま…左之っ!千鶴ちゃんの前でなにしやがる!」
「油断大敵」
 永倉が言った言葉をそっくり返して、原田はにやっと笑う。
 千鶴はそんな三人から隣にいる沖田へ視線を滑らせた。
「……あの、沖田さん。私には無理そうなんですが」
「千鶴ちゃん、雪合戦したかったの?」
 その言葉に千鶴は瞳を瞬いた。訳がわからない。千鶴はしたいとは思わなかったし、なにより付き合わせた沖田が言うのはおかしい。
 言葉を捜す千鶴を気に止めず、沖田は彼女から離れた。ほんの三拍後程で戻った沖田は、白い小さな塊を手にしていた。
「はい、あげる」
 手を出すと、沖田は白い塊を千鶴の手の上に乗せた。
 小さくて白い塊を手にした千鶴は、嬉しそうに頬を緩めた。
「可愛いですね。沖田さんが作ったんですか?」
「そうだけど。意外?」
 くすっと笑う顔は、千鶴の思っていることをお見通しらしい。
「…少しだけ意外です」
 南天の実で目をつけた、可愛い雪うさぎ。
 男の人が作るとは思いませんでした、と言うと、沖田は納得したように軽く頷いた。
「雪を見てたらさ、千鶴ちゃんみたいだったから作ってみたんだ」
「…私みたい、ですか?」
「うん」
「それはどういう意味なんでしょう?」
「…どういう意味だろう?僕にもわからない」
 沖田の言葉に千鶴は瞳を瞠った。嘘を言っているようには思えない。本気でわからないのだろう。本人が理由をわからないのなら、自分が考えたところでわかるわけがない。
 どうしてなのかわからなくて、けれど自分にと作ってくれたのは嬉しい。
「大切にします」
「明日になれば溶けてなくなってるよ」
「なくなっても、心の中に残ります」
 ふわり、と千鶴は微笑んだ。雪うさぎは溶けてしまっても、思い出は残る。
 そんな彼女に沖田は瞳を驚きに瞬いて、「そうかもね」と言った。
 千鶴は嬉しそうに笑って、沖田がくれた雪うさぎを縁側に置いた。体温で少しづつ溶けてしまっているのと、もうひとつ雪うさぎを作ろうと思ったので。
 縁側から身を乗り出して庭の雪を取って、千鶴は沖田が作ったものよりやや小さい雪うさぎを作った。それを縁側に置いた雪うさぎの隣に並べて置く。
「ひとつだと可哀想なので」
 沖田を見上げて千鶴が微笑む。
「…君って変わってるね」
「そうですか?」
 自覚がない千鶴は、きょとんと首を傾げた。
「うん、変わってるよ。だけど、君らしい」
「そう、ですか?」
 褒められているのか、呆れられているのか。
 考え込む千鶴に沖田は翡翠の瞳を細めてふふっと笑った。
「千鶴ちゃん」
「はい?」
「お茶淹れてくれるかな」
「あ、はい。ここで飲まれますか?」
「僕の部屋に持ってきてもらっていいかな。僕と君のと二人分」
「えっ?」
「なに?嫌なの?」
「嫌とかそういうわけでは…」
 ごにょごにょと言葉に詰まる千鶴に、沖田は満足そうな笑みを浮かべる。
 今日も退屈しないで過ごせそうだ、と。
「それじゃ、待ってるから」
 止めの一言を放って、沖田は自室へ向かって歩き出す。
 小さくなる彼の背中を見送る千鶴の傍へ、遊びながらも二人の様子をちらちら見ていた三人がやってきた。
「なんというか…ご愁傷様だな、千鶴」
 千鶴の肩をぽん、と叩いて原田が言えば、彼の隣で藤堂が面白くなさそうな顔でぼやく。
「ったく、総司はおいしいとこ持ってくよなー」
「あとで近藤さんに言って説教だな」
 俺だって千鶴ちゃんと遊びたいのに、と永倉が言った。
 近藤は昨日から黒谷へ会合に出かけていて、戻るのは本日午後の予定だ。
「みなさんも一緒にお茶を飲みませんか?」
 縋る思いで千鶴が訊くと、三人は揃って難しそうな顔をする。 お願いします、と視線に力を込めるが、千鶴の願いは叶わなかった。
「すまない、千鶴ちゃん。けど、何かあったら叫んでくれ。助けに行くからな」
 永倉が言うと、その隣で藤堂が「うんうん」と相槌を打つ。
「助けてやりたいけど、総司のあの様子じゃ俺らが行くと嫌味を言われそうだしな」
 去り際に一瞥投げられた沖田の瞳が、邪魔したら斬るよ、と告げていたが、それは言わないでおく。千鶴を更に落胆させる材料にしかなりそうにないので。
「俺達がこっそり様子を見にいってやるから」
 小さな子をあやすように、原田は千鶴の頭を撫でた。
 三人に揃って断られた千鶴はがくりと肩を落とした。やっかいな人に自分は気に入られてしまったみたいだ。
「…頑張ります」
 千鶴は力ない返事をして、立ち上がった。広間にある冷めたお茶が入った湯飲みを片付けて、それからお茶を淹れるために。
 広間に戻ってきた千鶴を見た斉藤と井上は、元気の無い彼女に何があったか察してしまった。が、何か言っても彼女が落ち込むだけだろうと、茶を馳走になった礼だけを述べた。そんな二人に千鶴の心は僅かに軽くなったが、これからのことを考えると再び気分は落ち込んだ。
 下げた湯飲み茶碗を洗い、沸かしたての湯で茶を淹れた。
 二つの湯のみを盆に乗せた千鶴は、昼近くになれば開放してもらえるだろうと期待を抱いて、沖田の部屋へ向かった。
「沖田さん、入っていいですか?」
 襖越しに声をかけると、すっと襖が開いた。
「いらっしゃい」
 にっこり微笑んで沖田が出迎えてくれた。思わず見惚れてしまって、千鶴は緩くかぶりを振った。彼のきらきらの笑顔に油断したら駄目だ。
「そんなに緊張しなくても、捕って食ったりしないから安心してよ」
「…沖田さんのことは信用してます」
 千鶴の言葉に沖田はくすくす笑う。何がおかしいのか、千鶴には少しもわからない。
「千鶴ちゃん、早く中に入って。寒いから」
「あ、はい、すみません。…お邪魔します」
「ふふっ、どうぞ」
 部屋の中へ入った千鶴は沖田に座布団を勧められた。断る理由もないので素直に座り、淹れてきた茶を沖田へ手渡した。
 沖田は茶を一口啜って、翡翠色の瞳を細めて千鶴を見つめた。
「……千鶴ちゃん、好きだよ」
 千鶴の白い頬が瞬く間に赤く染まっていく。
「なっ、お、沖田さんっ?」
 耳までも赤く染めて慌てふためく千鶴に、沖田は不思議そうに首を傾げた。
「なんで赤くなってるの?」
「だっ、だって、好きって沖田さんが…」
「うん、好きだよ。君の淹れてくれるお茶」
「………お茶?」
 言葉を理解するまで、少し時間がかかった。
 黒い瞳を丸くしている千鶴に、沖田は意地悪そうな微笑みを浮かべる。
「誤解させちゃったなら、ごめんね」
 言葉とは裏腹に、沖田の顔は少しも反省の色が見えない。むしろ至極楽しそうだ。
 誰か助けて!
 千鶴は心の中で叫んで助けを求めた。けれど、そんな心の叫びさえ沖田にからかわれる材料となるだけだった。
 それから数刻の間、沖田の言動に振り回されている千鶴の姿を、部屋へ様子を代わる代わる覗きに来た幹部達は目撃した。だが、誰一人として嬉々としている沖田を止められる者はなく、心の内で千鶴に声援を送るだけだった。
 近藤が予定より早い午の刻頃屯所へ戻ってきて、千鶴はその時になってようやく沖田から開放された。けれど、あまり穏便に片付かなかったのは、言うまでも無い。




【終】


WEBイベント『桜結び』提出作品/一部修正加筆


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