想い、惹かれる




 辺りは暗く、鬱蒼とした森が広がっている。
 天に月が輝いているが、月光は深い森の奥までは届かない。
 時折響く夜行性の鳥の声が不気味に感じるほど、静かな闇に包まれている。
 暗闇の中、沖田は幹に背を預けて座り、膝の上に千鶴を乗せ横抱きにしている。彼女は抵抗したけれど、思うように身体が動かず、更には「こうしている方が僕が暖かい」と言われて、千鶴は何も言えなくなってしまった。けれど、数刻してから暖かいのは彼ではなく、腕の中に入れられた自分だという事に気がついた。
 沖田さんはとても優しい。
 千鶴は改めて思った。言葉とは裏腹に、彼の行動はいつも優しい。
 迷惑をかけてしまったのに嬉しいと思うのは不謹慎だとわかっているけれど、包まれる温もりに安心する。
 不意に強く吹きぬけた風に、千鶴は僅かに身震いした。
「寒い?」
 柔らかな気遣う声に、千鶴は緩くかぶりを振る。ただ首を横に振るだけなのに、ひどくしんどい。
「大丈夫、です」
 搾り出すように答えると、沖田は呆れた顔で溜息をついた。
 青白い顔をして、黒い瞳を辛そうに歪めていながら、大丈夫と言われても説得力はまるでない。
「意外に頑固だよね、君は」
 困ったように微笑みを浮かべて、沖田は千鶴の身体を僅かに引き寄せた。


 千鶴の身体が鉛のように重くなり、上手く動かなくなったのは、一刻程前。
 沖田と千鶴の二人は、甲州城に向かった近藤の後を追うために江戸を出た。江戸を出発して四日後の夜、二人は笹子峠へたどり着いた。
 それほど遠くない所から響いてくる銃声の音が、戦場が近いことを示唆している。二人は甲陽鎮撫隊と名を変えて戦っている、新選組の同士たちと合流するために歩を早めた。
 その時、千鶴の双子の兄である薫が姿を見せた。
 沖田に敵対心を燃やしている薫は、沖田へと襲い掛かった来た。沖田は羅刹へ変貌し、薫の攻撃をたやすく受け止めている。
 それが何度か続いたあと、薫が突然向きを変え、沖田を見守る千鶴へ近づいて来た。
「やめろ、薫!」
 沖田の叫びが耳朶に届くのと、千鶴が口をこじ開けられたのはほぼ同時。
 何かが口の中に押し込まれ、喉を液体が通り落ちた。
 どくん、と一際大きい鼓動が千鶴の耳朶をつく。身体が燃えるように熱い。
 一瞬の隙を突き変若水を飲まされたのだとわかったのは、他ならない薫の声だった。
 千鶴の中を流れる鬼の血と変若水が反発しあうのに時間はかからなかった。
 そして、目的を果たした薫が忽然と姿を消した時には銃撃が止み、周囲は静寂に満ちていた。
 いつまでもここにいては仕方ない、と二人は江戸へ戻ることにし、新政府軍に見つからない道を歩きだした。
 僅かな月明かりを頼りに、二人は道なき道を進む。夜に鬱蒼と茂る森の中を歩くことは困難だった。体調が万全であれば夜とはいえ、歩くのに支障はなかった。だが、変若水により羅刹へなってしまった千鶴の体内では、鬼の血と変若水の効力がせめぎあっていた。
 時々足元がふらつき転びそうになる千鶴を支えながら、沖田は歩を進めていた。しばらくの間、彼女が大丈夫だというので歩いていたが、やがて彼女の呼吸が徐々に荒くなってきた。このまま歩き続けるのは千鶴には無理だ。身体にはかなりの負担がかかっているだろう。
 沖田は判断して、深い茂みに囲まれた樹の根元へ千鶴を連れて向かった。休息をしなければ、彼女の身体がもたない。


「……無理はしなくていいよ」
「すみません…」
「いいから。今は休んで」
 江戸まで帰るには、少なくとも後二日はかかる。甲州までの道のりで羅刹なのは沖田だけだったが、江戸への道のりは千鶴も羅刹になってしまった。日中の動きを制限される羅刹の身体では、夜しか移動できない。沖田は昼間に全く動けないということは無い。だが千鶴の様子では、無理をして歩かせられない。
 彼女が迷惑をかけたくない、負担になりたくないと考えて無理をして歩いていたことなど、数年一緒に過ごしているのだからわかっている。
 戦況を知るために急ぎ江戸へと思っていても、千鶴を残していける訳が無い。
 京にいた頃は、からかって楽しむ、その程度にしか千鶴の存在を思っていなかった。だが日を追うごとに、彼女の事を考えるようになっている自分がいた。いつから千鶴の事を意識していたのか定かではない。彼女が自分を好いていることは知っていた。他ならぬ彼女の口から聞いていたから。けれど、沖田は千鶴の想いに応えなかった。彼の心の中を占めているのは、新選組局長――沖田にとっては兄とも言える、もっとも慕いを寄せている人だ。
 近藤の刀であること。それが沖田が生きている意味だった。それはずっと変わらないと思っていた。突然の病で倒れ、刀を握れない日がくるなど、想像していなかった。
 近藤のために生きてきたと言っても過言ではないだろう。
 それなのに、いつのまにか近藤以外に心の中にいる人が増えた。その事を今になって気がついた。冷たい言葉を向けようと、突き放しても、何とも想っていないと言っても、千鶴は離れていかなかった。
 いつの間にか大切になっていた、心を惹かれて好きになっていた少女――千鶴を沖田は千歳緑の瞳で優しく見つめる。
「暗くてちょっと気味悪くない?」
「そう、ですね。少し」
「恐くなったらいつでも抱きついていいよ」
「なっ…そっ、そんなことしませんからっ」
 夜目にわかるほど頬を赤く染めて狼狽する千鶴に、沖田はくすくす微笑む。
 千鶴ちゃんてほんと見てて飽きないよ。
 沖田は胸の内で呟いて、千鶴の前髪に右手の指先で触れた。絹のような肌触りの黒い髪が、さらりと指先から流れ落ちる。
「沖田さん?」
 不思議そうに黒い瞳を瞬く千鶴に、沖田はふっと双眸を細めた。
「ほら、目を瞑って」
「あ、はい」
 千鶴は言われた通り、おとなしく瞳を閉じた。
 しばらくして聞こえ始めた寝息に、沖田は安堵の息を零す。よかった。苦しそうな息ではない。
 不意に襲い来る発作の症状は、千鶴には見られない。だが、近いうちに出るのは否めないだろう。杞憂であればいいと願うが、適わないだろう。
 それならばせめて、彼女の休息を守りたい。
「………もう二度と傷つけさせない。千鶴ちゃんは僕が守る」
 決意を込めた囁きは千鶴の耳に届くことなく、静寂な闇の中へ消えた。




【終】



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