その瞬間が来るまでは 赤く染まった紅葉がひらりと舞い、地上へ落ちる。 一枚、また一枚と落ちる紅葉は、赤い布を広げたように、地上を赤く染めていく。 ここに――千鶴の故郷に暮らし始めてから、五ヶ月が経つ。この地の清き水が変若水を浄化するかもしれない、と今は亡き千鶴の養父であった綱道から聞き腰を落ち着けたのは、まだ若葉が薫る五月だった。 清き水のおかげで、総司と千鶴の体内を荒れ狂っていた変若水は影を潜め始め、普通の人と変わらない生活を送れるようになってきている。 朝陽とともに起き、星影の瞬きとともに眠る、穏やかな生活。 傍にはいつも千鶴がいて、幸せで心が満たされる日常。 そんな幸せな日々に、ふと影が射す瞬間がある。 総司は縁側に片胡坐をいて座り、家の周りの景色を眺めていた。 「……いつまでもつかな…」 形の良い唇から、囁くような声が零れる。 この地へ来る前も、この地に住み始めてからもずっと考えている事がある。 だが、考えても答えが出るわけでは無い。 変若水の効力は薄れ、羅刹と化すこともなくなった。血を欲することもない。それは、この地の澄んだ空気と清浄な水のおかげだ。 けれど、総司の内にある病は完全に癒えていない。労咳という不治の病に有効とされるのは、休養と澄んだ空気、滋養のある食物だと、松本から何度か聞かされていた。けれど、それは初期症状の時ならば、の話だろう。 何故なら、病の進行は完全には止まっておらず、ほんの少しづつではあるが、進行しているように思うのだ。診療してもらった訳ではないから、はっきり断言は出来ないが。 もし労咳に罹らなかったとしても、羅刹の力を使うことで寿命を削っている身体は、死へと近づいている。 近藤の『剣』として戦っている時は、命の事など気にしてはいなかった。命が尽きる瞬間まで、『剣』で在り続けたいと願っていた。 でも千鶴と想いを重ねた今は、少しでも長く彼女の傍にいたい。 春の木漏れ日のような優しい声を聞いて、眩しいほどの可愛い笑顔を見て、愛しい人を抱きしめていたい。 それが出来る時間は、あとどのくらい残されているのだろう。 総司がぼんやりと眺めていた紅葉から青空へ視線を滑らせた時、微かな足音が近づいてきた。 「総司さん、お茶が入りましたよ」 「ありがとう」 自分の隣に腰を下ろし正座した千鶴へ、総司は穏やかな笑顔を向ける。 千鶴は笑みを返しながら、総司へ湯のみを手渡した。霞色の湯のみからは僅かな湯気が立っている。総司は淹れ立てのほうじ茶を啜った。 茶の味など誰が淹れても大して変わらないと思っていたが、千鶴の淹れる茶を飲むようになってから、意見は変わった。 千鶴の淹れる茶は格別に美味しい。 もう一口啜って、総司は湯のみを床に置いた。 「あの時のことを思い出しますね」 千鶴の視線を追った総司は、彼女が何を言っているのかすぐに理解した。千鶴の瞳に映っているのは、燃えるように赤い紅葉。 あの秋の日、土方に言われるまま、千鶴と二人で紅葉狩りに出掛けた。彼女はその時のことを言っているのだ。「ここから落ちたら、どうなると思う?」と問いかけると、「……困ります。私、ついていけません」と大まじめに答えた千鶴。 今同じようなことを口にしたら、彼女は何と答えるだろうか。 ふとそんなことを思ったが、言葉にはしない。 「ねえ、千鶴。明日、紅葉狩りに行こうか」 千鶴は黒檀の瞳を瞬いて、不思議そうな顔で首を傾ける。 「これからじゃ駄目なんですか?」 陽が沈むまで、まだ数刻ある。少し遠出して紅葉狩りをして戻るくらいの時間は十分にあるのに、何故明日なのだろう。 「明日がいいんだ」 「……絶対ですよ」 真剣な瞳で見つめてくる千鶴に、総司はくすっと微笑む。 「やだな。約束は破らないよ。僕はそんなに信用ない?」 総司は楽しそうに瞳を細めて口元に弧を描く。 千鶴は首を横に振って、膝の上に置かれた総司の手に己の手を重ねた。 「総司さん、私の傍からいなくならないでください」 その言葉に総司の瞳が一瞬だけ驚きに瞠られた。 「急にどうしたのさ?」 「約束してください」 黒い瞳の奥が切なさに揺れている。 気がつかれてしまった。 先の見えない未来。不確かな明日。 いつか君の傍からいなくなる、未来。 不安に揺れている心を。 千鶴に甘えてしまいたい。 けれど、破ることになるかもしれない約束は出来ない。 「私と一緒に生きる、って約束してください」 「千鶴…」 「ずっと一緒にいてくれるって言ったじゃないですか。あれは嘘だったんですか?」 人に戻るのを諦めて羅刹として――化け物として生きていくしかない。 そんな風に思っていた私を諌めてくれて、ずっと一緒にいようと約束してくれたのは、嘘だったんですか? 真っ直ぐな瞳で見つめられ、重ねられた言葉に、総司は困ったように笑った。 久しく見ることのなかった、揺るがない顔。 こんな顔をされたら、折れるしかない。 「君から口付けしてくれたら、約束するよ」 ただ約束するだけでは物足りないから、意地の悪い言い方をした。 「……約束ですよ?」 「約束するよ」 千鶴はこくりと小さく息を飲んで、総司の唇にそっと口付ける。彼女の柔らかな唇は、触れてすぐに離れた。 「…ねえ、それだけなの?」 「そっ、それだけって言われても…」 自分から口付けをしたのは初めてで、それだけで恥ずかしいのに、それ以上どうもできない。 頬を赤く染めてうろたえている千鶴に、総司はくすくす笑う。 むくれてふいっと視線を逸らす千鶴を総司は腕の中に閉じ込めた。 「千鶴も約束して」 根が素直な千鶴は無視することなく、視線を総司へ滑らせる。 「…何をですか?」 瞳を瞬く千鶴に、総司は緩く首を傾けて微笑む。 「僕以外を好きになったら駄目だからね」 甘い声で囁いて、千鶴の返事を待たずに唇を重ねる。 数秒の長い口付けをして、総司は名残惜しげに千鶴の唇から離れた。 「約束だよ、千鶴」 「…はい」 目元を赤く染めて照れた顔で微笑む千鶴を、総司は心の奥へ大切に刻み込む。 命の尽きる瞬間まで――その瞬間が来るまでは 僕は君と生きていく 出来る限りの時間を君と刻んでいくと誓うよ 生まれ変わっても僕を好きになって、とは言えないけど 僕は君を好きになるよ 僕の瞳に君を映せなくなる日まで 二人で時を重ねて生きていこう 【終】 戻る |