呼んでいいよ 青空に真っ白な雲が浮かんでいる。 時折吹き抜ける風は清清しく、心地よい。 これなら洗濯物がよく乾きそうだと、千鶴は頬を緩ませながら、竿へ洗った着物や手ぬぐいを干していく。 新選組の屯所に身を寄せるようになって四ヶ月が経ち、こういった雑用をこなすのは早くなっていた。 千鶴は土方の小姓となってはいるが、それはほぼ形だけで、あまり土方から用事を頼まれることはない。食事当番や掃除、洗濯や土方のおつかいなど、些細な事しかできないけれど、それでも自分に出来る何かがあるのは嬉しい。 あらかた干し終えたところで、次は掃除でもしようかな、と考えていた千鶴の耳に楽しそうな笑い声が届いた。声が聞こえるのは屯所の西――壬生寺がある方だ。 近所の子供達が遊んでいるのだと声でわかったが、ずいぶんと楽しそうだ。 「総司にーちゃん捕まえたー」 風に乗って届いた声に、洗濯物を干していた手がぴたりと止まる。千鶴の脳裏に一人の男性の顔が浮かぶ。 総司にーちゃんって…沖田さん? 小さな子から見れば沖田はお兄さんという歳だろうが、どうにもぴんとこない。 自分に向けられる表情は飄々としていたり、意地悪だったり、背筋が凍るような笑みだったり、お兄さんという単語に結びつけるには遠いからかもしれない。 それなのに、時々優しいから、戸惑う。 千鶴は瞳を瞬いて、残りの洗濯物を干し、籠を片付けて境内を覗いてみる事にした。 無断で屯所を出るという事は出来ないので、境内側の中庭から寺を覗き込む。 黒い瞳に映ったのは、壬生寺の境内で鬼ごっこをしているこどもたちと沖田の姿。 沖田は楽しそうに笑っていて、千鶴はちくんと胸が痛んだ。 あんな顔するんだ…。 意地悪な笑みや飄々とした笑みしか見たことがないので、初めて見た心底楽しそうな笑みの沖田に驚いたのは勿論だが、どうして暗い気持ちになるのだろう。 一瞬、いいな…、とこどもたちを羨ましく思って、それを否定するように千鶴は首を横に振った。 初対面の時から沖田は何かあるごとに【斬る】と言っている。そんな人が自分にあんな笑みを見せる筈がない。 彼の表情は豊かだけれど、本心はまったくわからない。 どこまでが本当でどこまでが冗談なのか。言葉の端から推測する事は不可能だ。 少しでも知りたいと思うのは、分不相応なのだろうか。 ぼんやりと物思いにふけていた千鶴は、存在に気がついた沖田が傍へ来た事に気がつかなかった。 「覗き見なんていい趣味だね、千鶴ちゃん」 「きゃっ!」 不意に聞こえた声に千鶴は飛び上がった。 「おおおおお沖田さんっ!」 「【お】が多すぎるよ」 「ごめんなさい」 「別に謝らなくてもいいけど。なんで覗き見してるの?」 沖田さんが【総司にーちゃん】と呼ばれているのが聞こえたので、気になって覗き見しました。 とは、言えない。 だからと言って咄嗟にでまかせを口に出来るほど器用ではない。 逡巡したのち、千鶴は口を開いた。 「洗濯を干していたら楽しそうな声がしたので、何をしてるんだろうって思ったんです」 「ふーん」 ……納得してないみたいに見えるのは気のせい…じゃないみたい。 じっと見つめてくる千歳緑の双眸に耐えられず、千鶴はおずおずと言った。 「…沖田さん、総司兄ちゃん、て呼ばれてるんですね」 「千鶴ちゃんも呼びたいなら呼んでいいよ」 「え?」 千鶴は黒い瞳を丸くした。 「僕、末っ子だったから、弟とか妹欲しかったんだよね」 思考がついていけていない千鶴に沖田はにっこり微笑む。いつも見ている笑顔とは違う種類の笑顔。 からかわれているのか、本気で言っているのか、千鶴には判断できない。 けれど、何故か心が漣立つ。 千鶴が何も言えずにいると、くすっと小さな笑い声がした。 「もしかして本気にした?」 口端を上げてにやにやと笑う沖田に、千鶴はまたからかわれたのだとわかった。 「してないです。沖田さんみたいに性格の悪い兄上は要りません!」 ぷいっと視線を逸らして怒る千鶴に沖田は面白そうに笑う。 ホント、君みたいな女の子は珍しいよ。 胸中で呟いて、沖田は笑みを深める。 屯所から逃げ出そうとして見つかった時、斬るなら斬ったらいい、と告げた少女。 本気で逃げようとしていたのに、堂々として言う態度は女の子にしては珍しくて、興味を引かれた。 くるくる変わる表情は、見ていて飽きない。 「そうだね。君とは……」 「……私とは何ですか?」 「いや、なんでもないよ」 兄妹になりたくない、という言葉を沖田は笑顔の中に隠した。 千鶴が嫌いだから兄妹になりたくないのでは無い。 「それより、千鶴ちゃんもこっちにおいで」 「え?」 「洗濯終わったんでしょ?」 「はい」 「それなら一緒に遊ぼう」 「あ、でも…」 黙ってそちらに行く訳にはいきません、と千鶴は続けた。 勝手に屯所を出た事が知られたら、土方に怒られてしまう。 「土方さんが帰るまでに戻れば大丈夫だよ」 その根拠はどこからくるんですか、沖田さん。 「それに、君が来てくれないと困るな」 意味がわからず首を傾ける千鶴に、沖田は微笑んだ。 「次は千鶴ちゃんが鬼だから」 「は?」 黒い瞳を瞬く千鶴に沖田は楽しそうに笑った。 「十数えたら探しに来てね」 「え、ええっ!?」 鬼ごっこじゃなかったの? じゃなくて、私やるなんて一言も言ってないんだけど。 土方に説教されたくはないのだが、この状況は流されるしかないのかもしれない。 ちゃんと説明したら土方さんわかってくれるよね。 うん、きっと大丈夫…だと思おう。 千鶴はこの際だ、と腹をくくって、瞳を閉じた。 【終】 戻る |