幸福は君と共に 周囲は闇に包まれている。 月は無く、星影も無い。右も左もわからぬ上、地があるのかも定かでない。 光は無く闇しか存在しない所に、気がついたら立っていた。 けれど、暗闇なのに全く恐怖を感じない。 何も見えない怖さが無いのは不思議に思ったけれど、その理由など千鶴にわかる筈がない。 「………ここはどこなんだろう」 天地左右、果てなく続く闇の中へ一歩を踏み出す。 しばらく闇の中を歩いてみたけれど、闇以外は見出せない。 困った。 どうしたらここから出られるのだろう。 そもそも、どうしてこんなところに自分は居るのだろうか。 歩を進めていた千鶴は、不意に名を呼ばれた気がして立ち止まった。 もしかしたら自分と同じように誰か居るのかもしれないと思ったが、耳を澄ませても声は聞こえなかった。 気のせいか、と緩く首を左右に振った時。 「…千鶴」 「え、この声…!」 千鶴は黒い瞳を驚愕に見開いた。 「父様!?」 確かに父の声だ。間違える筈がない。だが、父は自分を庇って命を落とした。それなのにどうして声がするのか。 もしかしたら、自分は死んでしまったのだろうか。 この闇は――ここは黄泉の国で、だから亡くなった父が迎えに来たのかもしれない。 本当にそうだとしたら、もう二度とあの人の笑顔を見られない。 傍にいると誓ったのに。 絶望が千鶴の胸を締め付ける。 黒い瞳の眦から涙が溢れる。 「総司、さん…」 顔を覆い嗚咽を零す千鶴の耳に、千鶴と呼ぶ声が届くのと同時にぽんと肩に手が置かれ、反射的に顔を上げた千鶴の涙で濡れた黒い瞳に穏やかに微笑む父が映った。 「安心しなさい。時はまだ充分残されている」 綱道は瞳を優しげに細めた。その瞳は愛情に溢れている。 「お前に帰る道を教えるために、私はここへ来たんだよ」 「…帰る、道…?」 「そうだ。お前を待つ人の元へ帰りなさい」 すい、と綱道が千鶴の左後方を指差した。それを追った千鶴は、そこに小さな光を見出した。先程まで闇だったそこは、淡く光り輝いている。 「……帰れる…の?」 「今ならば間に合う。早く行きなさい」 「でも、父様…」 父と一緒に行くことはできないのだと、わかっている。 けれど、もう会うことはないとわかっていての再会は、離れがたかった。 「お前が戻らねば、彼は悲しむだろう。それでもいいのか?」 千鶴は首を左右に振った。 「ならば行きなさい」 「父様…」 千鶴は頷き、光へ手を伸ばした。すると淡い光は細い体を覆うほどに輝きを増し、千鶴は眩しさに瞳を閉じた。 ふ、と千鶴が目を開けると、痛みを湛えた顔をした総司が顔を覗き込んでいた。 「……総司、さん?」 「千鶴! よかった…目を覚まさなかったらどうしようかと…」 そっと千鶴の頬に伸ばされた大きな手は震えている。その手に自らの手を重ねようと腕を動かした千鶴は、腕に走った痛みに顔を歪ませた。 「…ッ!」 「動かしたら駄目だ!」 大きな声に思わず身をすくませた千鶴は、腕以外にも身体がじくじく痛むことに気がついた。 「私、どうしたんでしょう?」 「それは僕が知りたい。君がなかなか戻らないから探しに行ったら倒れてる君を見かけて…。……君を――」 失ったら、僕は…! 掠れたうめき声に千鶴は自分が相当危ない状態だったのだと悟った。 「ごめんなさい、総司さん。心配をおかけしてしまって」 「……どうしてあんなところに君はいたの?」 「え、それは………」 千鶴は口ごもった。 言える筈がない。 山菜を摘んでいて草陰で見えなかったちょっとした崖から足を滑らせて落ちたなど、言える筈がない。 瞳を不自然に泳がせた千鶴に、総司は千歳緑の双眸を細めた。 「こんなに僕をさんざん心配させておいて言わないつもり?」 にっこり微笑んでいるが、その笑顔はとても怖い。 「あ、あのっ………」 千鶴はごくりと喉を鳴らして、恐る恐る言葉を紡いだ。 「足を滑らせて、その…崖から落ちてしまって…」 「っ!?」 総司は千歳緑の瞳を見開き、息を詰めた。 心臓が氷の手で鷲づかみにされた気分だ。 倒れていた千鶴を見た時、背中を氷塊が滑り落ちたけれど、それと同じ状態に総司はあった。 ややあって、総司はようよう口を開く。 「…っ、君は僕の寿命を縮めたいわけ?」 「そんなことあるわけないじゃないですか!」 思わず起き上がり大きな声を出した瞬間、全身に痛みが走ったけれど、今は痛みがどうこう言ってられる状況ではなかった。 「そんなこと考えたことなんてありません!」 「千鶴、僕がどれだけ心配したと思ってるの?」 ふわりと優しく抱きしめられ耳元で囁かれた声は、責める響きなど微塵もなく、いたく心配していた響きだけが宿っている。 「…ごめんなさい、総司さん」 痛む腕をそろりと彼の背中へ回し、甘えるように広い胸に顔を埋める。 「……わかっててやってるなら性質が悪いよね」 ぼそりと紡がれた言葉に千鶴は首を傾げた。 「なんのことですか?」 「無意識、か。自覚がなくても性質が悪いのは変わらないけど」 「総司さん?」 「ねえ、千鶴」 「はい?」 「忘れないでね。僕の幸福は君と共にあるんだから」 ――お前の幸福は彼と共にあることだろう? 幸せになりなさい―― 「…と、……ま」 黒い瞳の眦から涙が一筋頬を伝い落ちた。 夢かもしれない。 全ては自分の心が見せた幻なのかもしれない。 けれど、肩に触れた手は確かな存在を持っていて、夢や幻で片付けるにはあまりに確かな感触が残っている。 「千鶴、傷が痛む?」 「…大丈夫、です」 顔を覗き込み、心配そうに眉をひそめる総司に千鶴は答えて、けれど総司には全て知っていて欲しくて話をした。 気を失っている間に、夢か幻かわからぬ父に再会したこと。 その人が自分を【ここ】へ帰してくれたこと。 千鶴が話している間、総司は黙って耳を傾けてくれていた。 「…千鶴の傷が癒えたら、墓参りに行こうか」 総司は千鶴の話が終わると言った。 誰の、とは訊かずともわかる。 つい数日前、父と薫の月命日の墓参りに行ったばかりだったが、千鶴は頷いた。 「はい」 父様が助けてくれたから、総司さんと幸せでいられます。 そう伝えたい。 「…総司さん」 「ん?」 「私の幸福も総司さんと共にあることです」 総司は軽く瞳を瞠り、ついで細めて微笑むと、千鶴の柔らかな唇に自分のそれを重ねた。 【終】 戻る |