ハロウィン珍騒動 (斎藤.Ver) 後ろから足音は聞こえない。どうやら巧く逃れられたようだ。 外套の前をきっちり掻き合わせ、一心不乱に廊下を走り抜けていた千鶴はほっと安堵の息をつき、歩調を緩めた。しかしそれも束の間。 「誰だ!?」 「!!」 前方から近づいてくる複数の人影。 まずい。逃げることに精一杯で周りに気を配る余裕のなかった千鶴は、いつの間にか自分が、平隊士達の居住区域に入っていることに気が付かなかった。 全身黒ずくめという風体も相俟ってか、こちらに駆けてくる隊士達の剣幕は相当なもので、下手に背を向けて逃げ出そうものなら不審者の排除を名目に抜刀しかねない勢いだ。 顔さえ見られなければやり過ごせるかもしれない。けれど、今の千鶴は袴の男装姿ではなく、異国の女装姿だ。 雪村千鶴だと分かれば、性別がばれる恐れもあるし、下手な言い逃れも出来ない。 絶体絶命。そうこうする間に距離を詰めてきた隊士達が、険しい形相で千鶴へと向かって手を伸ばしてきた。掴みかからんばかりに迫ったその腕にぎゅっと目を瞑ったその刹那。 ばさぁっと、布が風に翻る音が耳朶に響いた。 「!?」 驚きに固まる隊士達。複数の、息を呑む気配がしたと思った時にはもう、千鶴は真っ暗な闇に捕らわれていた。 「……これはなんの騒ぎだ」 「さっ、斎藤組長!?」 隊士と千鶴の間を阻む形で広げられた外套。その裾を掴み、動揺した隊士達を見据えるのは彼らにとっての上官。新選組三番組組長、斎藤一その人であった。 緊張で背筋を正した彼らとは対照的に、みるみる顔のこわばりを解いた千鶴はほぅ…と安堵の溜息をつく。 腕を掴まれ、引き寄せられた千鶴は斎藤の胸へと押しつけられていた。 どくんどくんと、耳に響く命の鼓動、頬に触れる温かい人のぬくもりに、怯えることはないのだと宥められたような気がして、千鶴は切迫した状況も忘れ、徐々に緊張を解いた。 思えばこの衣服に身を包んで自室を出て以降、安心したのはこれが初めてだ。 くたりと力を抜くと隊士達を説き伏せていた斎藤が、わずかに眉を寄せて自分の胸元を見下ろす。 外套で遮っているとはいえ、目と鼻の先に警戒すべき対象がいるというのに、緊張感がなさすぎる。 とろりと目を伏せ今にも眠りこけてしまいそうな千鶴の迂闊さに、心底呆れたと言いたげな溜息を吐いた斎藤は、もう一度、隊士達へと向き直る。 「こいつの処遇は俺に任せてもらう。お前達は速やかに部屋に戻れ」 そう命令されたもののいまいち納得がいかない隊士達。彼らと侵入者との間を阻む黒い外套を凝視したが、そんなことをしても向こう側が透けて見えるわけではなく、彼らは渋々ながら引き下がり、その場を後にした。 「……お前は何をしているんだ」 隊士達の姿が充分遠ざかったところで、斎藤が重々しく口を開く。 「すみません……」 常に静かな声音が、今回ばかりは冷たく咎めるようなものであったことは、もはや仕方のないことだと思う。一度張りつめていた緊張感が緩んだためか、少しは気の足りない返事ではあったものの、己に非があったことを素直に受け止め、反省していることが伝わったのか、斎藤は千鶴の軽率さをそれ以上責めることはしなかった。 これが土方や沖田であったならば、延々と、それこそ耳が痛くなるほど、くどくどと長い説教を続けられていただろう。特に沖田ならば、本人が反省していようがいまいが、彼が味あわされたあろう苛立ちや鬱憤を、あますことなく解消してからでないと解放されることはまずあり得ない。 その点斎藤は違う。相手の本意を見極め、理解し、そして信頼までしてくれる。 広げた外套の中に包まれた千鶴は、ふわりと顔を綻ばせた。 「危ないところを助けて頂き、ありがとう御座いました」 謝罪の言葉と一緒にぺこんと頭を下げると、ふぅっと小さな、それこそ風に乗って溶けてしまいそうなほど小さな溜息が、頭上に零される。 「構わん。それが任務だ」 「それでも、助けて頂いたことに変わりはありませんから」 「……まあいい。それよりも早く部屋に戻れ。そんな恰好でうろついていては、またいつ何時厄介事に巻き込まれるか……」 そこで言葉が途切れる。続いてひどく動揺した様子の人の気配。 頭を下げ、視界が遮られているせいか、視覚以外の感覚が鋭くなっている千鶴は、斎藤の変化を敏感に悟る。しかしそうでなくとも、頭を上げて見た斎藤の様子は、目に見えておかしかった。 「斎藤さん? あの…、どうしてあさっての方向を向いてるんですか?」 口元を押さえ、首を後方に逸らした斎藤の顔は見えない。 けれどよくよく見ると、その目元がほんのり朱に染まっているような……。 「少し顔が赤いようですけど……あっ、もしかして風邪でも引かれたんでしょうか!?」 なら大変だ、すぐにでもお部屋で休まないと、と声を上げ、少し高い位置にある斎藤の額へと手を伸ばす。斎藤はそれに過敏に反応した。指先が彼の額に触れる寸前、斎藤は弾かれるようにして後方に飛び退いてしまった。 「え……? あ、の…?」 行き場を無くした指先が彷徨う。 千鶴が訳も分からず呆けていると、そんな彼女を一瞥した斎藤が自分の外套を外して千鶴の肩にかけた。 「行くぞ」 顔を朱に染めたまま、踵を返した斎藤がズンズンと先を歩いていく。斎藤がやってきた方向だ。 唖然としていた千鶴だったが、彼の人の背中が見る間に小さくなっていくことに気付いて慌てて後を追った。 肩にかかった外套は意外に重量がある。一枚なら特に違和感はないが、二重になっては流石に重い。とはいえ、そんなことを迂闊に言える状況ではなさそうだ。今下手なことを言おうものなら、何らかの原因で動揺している斎藤の困惑を余計に煽ることは間違いない。 しかし声をかけずにはいられないほど、千鶴もまた切羽詰まっていた。 歩調があまりに違い過ぎる。斎藤の歩く速さが、千鶴のそれを明らかに上回っていたのだ。 廊下を突き進んでいる斎藤の足取りは速い。いつもなら遅れた千鶴を気遣って歩調を緩めてくれるというのに、どう見ても冷静とは言い難い今の斎藤は、千鶴との間に空いた距離がどんどん広がっていることに気付いていない。 「さっ、斎藤さん、待って下さい…っ」 必死で追いつこうとするものの、外套の前が肌蹴はしないかと気が気でない千鶴の足は、いつもより遥かに遅い。 ようやっと喉から滑り降りた、焦りを滲ませた千鶴の呼び声に気付いた斎藤はハッと我に返って立ち止ると、すぐに元来た道を引き返した。 危うく置いていかれるところだった千鶴は、斎藤が戻ってきてくれたことに、安堵と、若干の申し訳無さを感じながら顔をほころばせると、ぴたりと斎藤の動きがまたしても止まった。 そして再び視線を逸らす。やっぱりおかしい。 「やっぱりお体の調子が良くないんじゃ……」 「いや、違う」 体調不良を問う千鶴に、即答で返す斎藤の言葉に迷いはない。 ここまできっぱりと言い切れるという事は、その可能性はないと考えて良いのだろう。斎藤はそういった嘘をつく人ではないから。 ほっと胸を撫で下ろすが、疑問は尽きない。むしろ一番的を得ているであろう考えを否定されては、気になって気になって仕方がない。聞いてよいものだろうかと悩みつつも、ここまで挙動不審な斎藤は珍しく、それゆえに心配でしょうがない。 触れられたくないところかもしれないが、聞かずにはいられなかった千鶴が意を決して、再び口を開こうとするが、その行動は斎藤によって遮られる。 「え…!?」 手を握られた。指の先を握り締めるようにして繋いだ手。そしてそのまま有無を言わさず手を引かれ、千鶴達は再び廊下を歩きだした。 「さっ斎藤さん!?」 いきなりの、予告なしの接触に大いに戸惑った千鶴は、思わず声を上ずらせる。けれど、状況がうまく飲み込めない千鶴が、説明を欲して必死に名を呼んでいるというのに、斎藤は振り返ってはくれない。 本当にどうしたというのか。いつだってまっすぐに人の目を見て話す斎藤さんらしくない。 せめてこちらを振り返ってほしくて、再び名前を呼ぼうとした千鶴より先に、斎藤が口を開いた。 「……すまなかった」 振り返りもせず、ぽつりと呟かれた言葉に、千鶴の口はぴたりと止まる。こちらに顔を見ない斎藤の、髪の隙間からわずかに覗く耳が赤い。振り返らないその背も、繋いだこの手も、心なしか固く強張っている。 「いいえ、気にしていませんから」 これが、今の彼にとっての精一杯だと悟った千鶴はふるふると首を振りながら、そう答えた。 普段冷静な斎藤さんの、こんなにいっぱいいっぱいな姿を見るのは初めてで、 微笑ましい、なんて言ったら、流石のあなたも怒るでしょうか? ふわりと微笑む。そしてふと、見慣れた背中に違和感を感じ、それが見慣れぬ洋装のためだと瞬時に理解した千鶴は、脳裏に妙案を閃かせた。 ふわふわと浮足立つ気持ちが背中を押したのだろう。普段控え目な彼女にしては即決で、その案を実行に移した。ズンズンと先を行く斎藤に手を引かれながら千鶴は声を張り上げる。 「斎藤さんっ」 「……なんだ」 「あの、“とりっく おあ とりーと”!」 近藤に教えてもらったハロウィンの合言葉。今日出会った人達にはそう言って回るといいと告げられたことを、唐突に思い出したのだ。さて、どんな反応が返ってくるのだろうか。 わくわくとした気持ちで次なる斎藤の行動を待ち構えていた千鶴だったが、斎藤は無言に無反応。だが、ぴたっと。その足が止まった。それがいきなりだったものだから、立ち止まった背中に千鶴は思い切りぶつかってしまう。ううっ、鼻が痛い。 痛みが早く引くようにと、押さえた鼻先を撫でていると、斎藤が無言で振り返った。 「菓子などない」 頬はまだ少し赤いものの、その顔は無表情で、返す言葉も温度がなく冷たい。 実は照れ隠しも含まれているのだが、鈍感な千鶴の目にはそれが怒っているようにしか見えず、委縮した。 「ごめんなさい…」 つい調子に乗ってしまった。 己の浅慮に項垂れる千鶴だったが、不意に後頭部を掴まれ、上を向かせられる。 背がのけ反り、外套の前を合わせていた手から黒の衣が滑り落ちた。 驚きに開かれた漆黒の瞳に、真摯な面持ちで彼女を覗き込む斎藤の姿が写った。 「菓子はない。だから……」 耳元に落ちる囁き。そして。 「“とりっく”」 耳に奔る微かな痛みと、熱く濡れた吐息。 「―――……悪戯だ」 秘め事を打ち明けるように、ひっそりと囁かれた言葉。 ゆっくりと身を離した斎藤を、まるで夢幻でも見ているかのように呆然と見上げていた千鶴は、斎藤に再度手を引かれて歩き始めるまで、何も考えられなかった。 繋がれていない方の手を、そっと、耳朶に触れさせる。……とても、熱い。蕩かされた思考で理解できるのはそこまでだ。 彼らが進んでいる廊下を、冷えた風が吹きぬけた。ぼんやりとしていた千鶴は、冷たい風を肌に感じて咄嗟に耳を強く押さえたところで、ハッと我に返った。 風に、斎藤が残したこの心地よい熱が消されてしまう。 そう考えた自分が、とにかく恥ずかしかった。 顔が熱い。きっと真っ赤だ。火照った頬を押さえたいのに、耳を覆う手が外せない。斎藤と繋がる方の手を離すなど論外だ。結局は顔を俯かせることしか出来ず、じわりと訳もなく涙が滲んだ。 悲しさではない。 悔しさやもどかしさが近くて、でもそれもぴったりと当て嵌まらない。 ただ感情が昂ぶって、抑えきれない。 「…ずるい…」と震えるようにして零れ落ちた千鶴の囁きと、「一矢報いた」とぼそりと付け足された斎藤の言葉は、紅く頬を染めた互いの耳に届かぬままに。 その後ふたりの間には会話もなく、お互いただ無言で廊下を歩いていた。 絡んだ指はそのままに。 斎藤一さん。 あなたはいつだって心を掻き乱してやまない男性(ひと)です。 ------------------------------------------------------------------ * note * 斎藤さんの魅力は初々しい中にも艶気のあるところだと思います。 いつもの彼ならトリートで餌付けを選択するでしょうが、翻弄されっぱなしで相当悔しかったのでしょう。斎藤さん、まさかの“悪戯”でした。頬染めて可愛い可愛いなんて頭撫でてたらあっさり喰われちゃいますよ(笑) ところで千鶴の服装なんですが、他の三人の小説と違って、斎藤さん.verだけ描写がほとんどありません。どちらかといえば千鶴視点で進んでる話の展開上、書き足すことが難しかったのが理由です。 何故斎藤さんが急に固まり千鶴から視線を逸らしたか分からなかった方は他の御三方の小説をご覧下さいませ。そして「あーなるほどね」と納得して下されば幸いです(コラ) ハロウィン企画の応募申込み、ありがとう御座いました。 遅れに遅れたイベントですが、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。 【落書き白書】管理人・織葉より 戻る |