こんなに想っているのに




 夜闇に浮かぶ残酷なまでに美しい月牙に胸の奥が締め付けられる。
 どれほど手を伸ばそうと、どれほど欲しいと望んでも手に入れることができない月。
 近くにあるのに――傍にいるのに掴むことができないあの人のようだ。
 想っていても、想いは永遠に届かない。
 どんなに想っても、この想いが届くことはない。叶うことはない。
 それがわかっていてなお、傍にいたいと望む。
 想いを断ち切ることも、忘れることもできない。
 苦しくて胸が詰まるけれど、それでも傍に居たい。
 誰かを好きになることがこんなに苦しいなんて思っていなかった。
 見ているだけで幸せで、話せたら嬉しくて。
 玄徳へ婚姻話が持ちかけられるまでは、それで充分だと思っていた。



「――花。お前はどう思う?」
 漣一つない静かな水面のような声で問われて、どれほど首を横に振りたかったことか。
 受けないでください、と。
 嫌です、と。
 心は悲鳴を上げている。
 けれど、それを口にしてはいけない。
 曹孟徳の脅威に対抗するためには、呉の孫軍との同盟は不可欠だ。
 天下泰平の世を願い戦ってきた玄徳の夢を実現するためにも、孫尚香との婚姻は必要と言わざるをえない。
 自分の感情など、何万人もの命のことを考えたら切り捨てるしかない。
 だから、永遠に想いが届かなくなるのを、伝えてはならなくなるのを承知で、花は賛成するしかなかった。
 他に道はなかった。
 今出来る最善の策が玄徳軍と仲謀軍の繋がり強化の為に婚姻を結ぶことだ、と軍師としてまだまだ未熟な自分にも理解できた。――感情は整理など到底出来ないけれど。
 そんな残酷な事を聞かないで、という思いを必死に飲み込み、花は重い口を開く。
「……それがいいと思います」
 声は震えていないだろうか。
 泣いていないだろうか。
 必死に堪えて、それだけ口にするのが精一杯だった。
 その後どうやって部屋に戻ったのか、よく覚えていない。
 芙蓉姫が来てくれて、泣いていいと言ってくれたから、涙が枯れるまで声を上げて泣いた。



 どうして玄徳さんを好きになってしまったんだろう。
 どうして惹かれてしまったんだろう。
 ――この世界の人間じゃない私が好きになっても仕方ない人なのに。
 けれど、同時に思う。
 得体の知れない自分を信じてくれて、保護してくれて、優しくしてくれた。
 仲間の信頼は厚く、仁愛に溢れている。
 そんな玄徳がいてくれたから、右も左もわからないこの世界で過ごせてこられた。
 曹軍に捕まってもう帰れないのかもしれないと思ったこともあったが、玄徳の命で子龍が助けに来てくれたから、今もここにいられる。

 二度と会えないより、ずっといい。
 隣に居られなくても、話す機会がなくなっても、どれほど苦しくても。
 永遠に想いが届かなくても。
 姿が見られればいい。
 そう何度も繰り返し自分に言い聞かせるが、そんなのは嘘だともう一人の自分が否定する。
 どうして私じゃいけないの。
 玄徳さんの傍にいるのがあの人なの。
 ずっと傍にいた私は傍にいられないのに、初対面のあの人は隣にいるの。
 毎日二人で何を話しているの。
 ――あの大きな手で頭を撫でてもらえることはもうないの?



 鳥のさえずりが聞こえ、重い瞼をゆるりと上げる。
 いつのまにか眠ってしまっていた。
 それはここ数日同じで、泣きながら眠ったがゆえの頭痛も同じだ。
 そして、何度朝が来ても、玄徳に想いが届かないのも同じ。
 こんなに想っているのに。
 玄徳と一度も会ったことがないあの人は傍にいられるのに、自分はいられない。

「花様、起きていらっしゃいますか?」
 扉越しに届いた使用人の声に、花はかぶりを振って無理矢理思考を追いやる。
「はい」
「孔明様が花様にも朝議にご参加いただきたいとお呼びです」
「…っ、……わかり、ました。今行きます」
 玄徳さんの顔が見られる。でも、見たく、ない。
 息をするのが苦しい。
 花は芙蓉姫にしか吐露できない行き場所を失った想いを抱え、朝議の席へ向かった。




―終―

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狂おしいほど愛しい人に7題 4.こんなに想っているのに
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