幸せな微笑み




「私の傍に、いてください」
 甘い囁きに重なるように、吐息が絡まるように甘く熱い口付けが落とされる。押し当てられる唇の熱に身体の芯まで溶けてしまいそうだ。
 そっと唇が離れてゆるりと双眸を開いた花は、公瑾の秀麗な瞳と目が合って思わず俯いてしまう。
 頬が、耳が、身体が火照る。
 初な反応を見せる花に公瑾は小さな笑みを口元に浮かべた。
「……嫌でしたか?」
 花がそう思っていない事など彼女の表情から一目瞭然なのに、わかっていながら問うのだから性質が悪い。だが、公瑾の思惑に素直な花は気がつかない。
 恥ずかしさを隠すように、花は公瑾の胸元に顔を埋める。甘えるようなその仕草に、公瑾は花の細い腰へ腕を回して抱きしめなおした。
「花」
 促すように名を呼ぶと、………嫌じゃない、です…、………公瑾さんが初恋だから……初めて…だから…、とくぐもった囁き声が公瑾の耳に届く。
 公瑾は二藍色の瞳を細め、蕩けるような微笑みを浮かべた。
「……あなたを知っているのは、私だけなのですね」
 口付けどころか、初恋が自分だと告げられて嬉しく思わないはずがない。
 自分以外の誰も花を知らない。
 それが喜び以外のなんだというのか。
 花の全ては自分のものだと、他の誰も知らない彼女を知るのは自分だけだということが嬉しくてならない。

 帰したくないと願った娘は自分の傍にいることを選んでくれ、この世界に残ってくれた。
 彼女の世界はきっと平穏で、多くの未来が広がっていたに違いない。
 それがわかっていても、花を望んだ。
 傍にいて欲しい、と。
 心が幸せに満たされる。
 心の奥底に潜む闇、親友の死を直視できない弱さ、笑顔の仮面に隠していた己の全てを、花は受け入れてくれた。

「……公瑾さん」
 名を呼ばれ、腕の中の花へ視線を落とすと、頬を桜色に染めて花が微笑んでいた。
「ずっと傍にいてくださいね」
 照れくさそうな顔をする花に公瑾は一瞬だけ瞳を丸くし、ついで穏やかな瞳で微笑む。
「……帰りたいと言われても、離しませんよ。あなたは私のものです」
 はい、と花が照れた顔で笑うから、公瑾は可憐な唇へ再び口付けようとしたのだが――。
「周都督、孔明殿がお会いしたいと仰っておられるのですが」
 扉越しに掛けられた声に、口唇が触れ合うまで指一本分の距離を残し、公瑾の動きが止まる。
「…孔明殿が私に、ですか?」
 公瑾は身体を硬くした花を腕に抱きしめたまま、来訪者へ声をかけた。自分が許可するまで部下が室内へ入る事はあり得ないからだ。が、そのようなことを花がわかるはずもなく、彼女は公瑾の袍の袖をくいっと引いた。
 その行動の意味を察し、公瑾は安心させるように微かに笑う。
「大丈夫ですよ。私が許可しない限り、彼は入ってきませんから」
「私、勝手に入ってきちゃいましたけど…」
 消え入りそうな声で、この場にそぐわない発言をする花に公瑾は苦笑する。
「あなたはいいのですよ」
 答えて、ふっと笑みをかき消す。
 孔明殿、か…。
 賢人と名高い、諸葛孔明。
 腕の中にいる恋人の師匠。
 劉玄徳を落とすより骨を折りそうだ、と胸の内で呟き、部下に孔明と会見する旨を伝えた。
「……花、一緒に行きますか?」
「え、私も、ですか?」
「ええ。孔明殿は私があなたと一緒にいるのを承知していて、会い見えたいと仰ったのでしょうし」
 今頃は小喬が――おそらく大喬と二人で、自分たちの事を周囲に言いふらしに回っているに違いない。それが孔明の耳にも入った、というところだろう。花は今日の午後、玄徳たちと一緒に荊州へ帰ることになっていたから、大小姉妹の話を耳にしたとしたら行動に出てもおかしくない。大方、孔明が玄徳に「玄徳様、ボクが噂を確かめますよ。弟子のことですし」とでも言ったのだろう。
 公瑾としては仕えている孫家当主である仲謀に花のことを報告すべきなのだが、孔明に関してはこの機会を逃さず利用すべきだろうと判断した。
 花は公瑾の言葉に瞳を瞬いて、緩く首を傾けた。
 公瑾さんは一緒に来るかって言うけど、大事な話し合いとかだったら、私はいないほうがいいんじゃないかな…?師匠に会うのは久しぶりだから嬉しいし、公瑾さんと一緒にいられるのはもちろん嬉しい。けど、師匠が公瑾さんと私が一緒にいるって知ってて会いたいって、どういうことなのかな?
 花の表情から悩んでいるのを察した公瑾は、彼女にわかりやすく言い直した。
「私はあなたに傍にいて欲しい。 ですが、孔明殿としては連れ帰りたいとお思いでしょう。 ……大事な弟子、ですからね」
 語尾の言葉には、幾分か深い意味が込められていた。孔明は花を大事にしている。が、それには弟子であるということ以外の別の何かが含まれているように公瑾は感じている。それは自分の憶測の域であって、真実のほどはわからないのだが。
「……私、やっぱり荊州へ帰らないと駄目でしょうか…?」
 花は不安そうな瞳で公瑾を見上げ、ぽつりと零した。
「まったく、あなたという人は……。そんな不安そうな顔をしないでください。あなたを離せるはずがないでしょう。約束を早々に破るつもりですか」
「破りたくなんてないです。ずっと公瑾さんの傍にいたい。けど、私は同盟のために仲謀軍へ使者として来たんですし……ここに残りたいなんて勝手かな、って……。師匠にもですけど、玄徳さんにも荊州には帰れませんて言わないといけないですし、……どうしたらいいのかわからなくなっちゃって……」
「それは、玄徳殿と孔明殿に話すのが不安、ということですか」
「はい。玄徳さんたちと一緒に帰るって言ってたのに、直前になって帰りませんなんて言ったら迷惑かけちゃいますし、私、残っていい立場なのかなって……」
「私が一緒にいても、ですか?」
 その言葉に、花はほっとしたように顔を緩める。
「あ…そう、ですよね」
 公瑾さんが一緒なんだ。
 そう思うと心強くて安心する。
 迷う必要なんてない。
「ありがとうございます」
 ふわりと笑う花に公瑾は微笑みを返し、抱擁を解いた。



 孔明が滞在している部屋へと二人並んで歩く。
 公瑾と一緒であってもどどきどきする心は抑えられなくて、花は隣を歩く年上の恋人を横目で見上げた。端正な横顔はにこやかな笑みを浮かべている。花だけに見せる笑みではない、いつもの笑みだ。
 公瑾さんは少しも緊張とかしてないみたい。……わけてもらいたいな…。
 そんなことを考えていると不意に二藍色の瞳が向けられて、花の心臓が跳ねた。
「いいですか?」
「え、……あっ、はい」
 いつのまにか孔明が滞在している部屋の前へと着いていたらしい。緊張していたから、公瑾に声をかけられるまで気がつかなかった。
「私がついています。大丈夫ですよ」
 公瑾は壊れ物を扱うように、華奢な手をそっと取る。
 花を安心させるためでもあるが、自分自身のためでもある。
 矢傷が化膿し、悪化して倒れたつい先頃。彼女のこの手が闇を彷徨っていた自分を救ってくれた。そして先程、傍にいて欲しいと望んだ自分の手を取ってくれた。

 ――決して、離さない。


「孔明殿」
 声をかけると、待ちかねていたかのように扉はすぐに開かれた。
「お待ちしていましたよ、公瑾殿」
 孔明はにっこり公瑾を出迎えた。もっともそれは表面上だけのことだということに、公瑾は気がついていた。それに関しては予想していたので驚きはない。
「お待たせして申し訳ありません」
「もしかして、お忙しいところをお邪魔してしまいましたか」
 揶揄するような孔明の問いに、公瑾は無言の微笑みで答えた。
 わかっていて呼んだのでしょう、と公瑾の二藍色の瞳は雄弁に語っている。
「花、久しぶりだね。元気にしてたかい?」
 仲謀軍と玄徳軍の同盟破綻を防ぐべく子敬と奔走していた孔明は花とゆっくり話す時間はなく、今が久しぶりの会話になる。もっとも、花に話を振ったのは久しぶりだからというのもあるが、半分は故意だ。
 戦場ではなくても、駆け引きは重要だ。
「はい、元気ですよ」
「公瑾殿にいじめられたりしてない?」
 花へ問いかけているが、孔明の視線は一瞬だけ公瑾へと向けられた。孔明のその行動は、明らかに自分への挑戦だ。無論、公瑾に引く気は微塵もない。
 花は誰にも渡さない。
 公瑾の口元は優雅な笑みを浮かべているが、二藍色の双眸は少しも笑っておらず、視線の鋭さだけで見た相手を射殺せそうだ。もっともそれは、相手が孔明のような男でなければの話だが。
「そんなことあるわけないじゃないですか。師匠じゃないんですから」
 だが公瑾が口を開くより花が声を発するほうが早かった。唇を尖らせる花に、孔明はのほほんとした笑みを向ける。腹の中を読ませない笑みだ。
「ボクのはひよっこな弟子への愛の鞭、だよ」
「そう、ですか? ちょっと使い方が違ってるような……」
「孔明殿」
 明らかにお前は邪魔だと――敵意をむき出しにしている男の目を向けさせるべく名を呼ぶ声は、冷たく鋭い。
「ああ、公瑾殿。いらしたんでしたっけ。すっかり忘れていました」
「師匠が公瑾さんを呼んだんじゃないですか!そういう言い方はひどいですっ!」
「ひどいというなら、君もだよ」
 思わぬ師匠の言葉に花は鳶色の瞳を瞠る。
「ど――」
「孔明殿、それは私に向けられるべき言葉です。花に言うべき言葉ではないのを、あなたが一番ご存知なのでは?」
 いつまでも萱の外に追いやられていては勝てない。ゆえに公瑾は攻撃に転じた。
「花、ね。ずいぶん花と仲がよくなったんですね、公瑾殿」
 公瑾と孔明の雰囲気が穏やかとは言い難い――緊迫をはらんだのが花にもわかった。
 私はどうしたらいいんだろう、と公瑾を見上げると、彼の瞳と目が合った。
 公瑾の二藍色の瞳が、心配いりませんよと告げるように優しく細められる。花は縋るように公瑾の袍の袖を握り締めた。
 それを見ていた孔明は、胸の内で盛大な溜息をつく。
 見せつけられて反対するなどできるはずがない。
 彼女にはいつでも笑っていて欲しい。
 ――たとえそれが自分以外の男の隣でも。
 胸に去来する様々な感情を押し殺し、孔明は作った笑みを崩さないように努める。
 反対はできないが、まだ認めたわけではない。
「呼び捨てをしてはいけませんか?」
 公瑾はわざと回りくどい言い方をしたが、孔明は刹那瞳を細めただけで笑みは崩さない。この程度で孔明の笑みが崩れるのなら苦労はないのだが、そう簡単に折れるとは考えていない。
 一筋縄ではいかないだろうということは予測の範疇だ。
「いけないわけではありません。ボクは理由を聞いてるだけですよ」
「花は私の恋人です。呼び捨てをしている理由になるでしょう」
「―――花、君は公瑾殿と遠距離恋愛するつもりなの?」
「えっ!?」
 不意に水を向けられた花は鳶色の瞳を瞠って、慌てて首を横に振る。
 ここに残るということをまだ言っていないことに気がついて、花は意を決した顔で口を開く。
 反対されても残る覚悟でいるけれど、やはり賛成して欲しいし、わかって欲しい。
「あのっ、私ここに残りたいんです。だから遠距離恋愛なんかじゃありません!師匠と玄徳さんにも言わなきゃって思ってたんです」
「それは荊州に帰らないって意味?」
「そうです」
「芙蓉殿や雲長殿、翼徳殿たちが君の帰りを待ってるって言っても?」
 花の細い肩がびくりと震える。けれど、花は孔明を正面から見据えた。
 公瑾さんの傍にいるって決めたんだから、ちゃんと言わなきゃ。
 孔明は花の揺ぎ無い真っ直ぐな瞳が、あの日――十年前に「間違っているとは思わない」と言った時の彼女の双眸と重なって見えた。
 あの時からずっと花に恋焦がれて、憧れてきた。
 再会に胸が高鳴った。
 けれど、それはもう終わりだ。
 彼女の心は、公瑾のもの――。
 認めたくなかったけれど。
「はい。公瑾さんの傍にいるって決めたんです。……行くべき道を見つけたんです」
「なら、仕方ないね。……幸せになりな」
「――っ、はいっ!」
「…ということですから、公瑾殿、手放すのはとっても不安な出来の弟子ですが、よろしく頼みますよ」
「ええ。大切にしますから、ご心配にはおよびません」
「……ねえ、花、公瑾殿のどこがよいの?」
 賛成しているのか反対しているのかどっちなんだ、と言いたくなるのを堪えた公瑾のこめかみが引きつっている。
 その様に孔明はにんまりと笑みを浮かべる。してやったり、という顔だ。
 ずっと想っていた女性を横から攫われたのだから、これくらいは許されるだろう。
 そう胸の内で呟いた孔明だったが、聞かなければよかったと後悔した。なぜなら――。
「全部、です。公瑾さんの全部が好きなんです」
 花は頬を赤く染めて幸せそうに微笑む。
「聞いたボクがバカだったよ」
 孔明は盛大な溜息をついたが、彼女が幸せだと言うのならそれでいい。
「……孔明殿」
 公瑾が名を呼ぶと、視線が向けられた。
 孔明は真顔で公瑾との彼我を詰め、内緒話をするように声を潜めて告げる。
「泣かせたら許さないよ」
「幸せにしますよ。花を愛していますからね」
 公瑾は孔明が見たことないほどの柔らかな微笑みを浮かべた。
 幸せが滲み出ている微笑みに、嘘や偽りは微塵もない。
 ――花が公瑾殿を変えた、のか…。
 孔明は花への想いを振り切るように、刹那瞳を閉じた。
「――花、玄徳様も君が一緒に帰れないのを知ったら残念に思うだろうけど、きっと笑って送り出してくれるよ。我が君は懐が広いし、包容力もあるしね」
「そうですね。 師匠が背中を押してくれて心強いです」
 にこにこ笑う花は、隣の公瑾の微笑みが音を立てて固まったことに気がつかない。
「……孔明殿、そろそろ失礼させていただきたいのですが」
 孔明は公瑾の余裕が剥がれ落ちたのを見た。冷静さを保とうとしているのが声色からわかる。
 珍しい顔が見られたことだし、このあたりでやめておかないと、後が怖いな。
 孔明は胸の内でごちて口を開く。
「ああ、そうですね。玄徳様にもご説明していただきたいですし」
 公瑾は退出の挨拶を済ませ、花を連れて客室を出た。
 廊下を数歩進んだところで花は公瑾へ問いかける。
「次は玄徳さんのところへ行くんですよね?」
「ええ。お伝えするのは早いほうがいいでしょう。仲謀様へもご報告しなければなりませんしね」
「あっ、そうですよね。 あの、仲謀さんへの報告があとになったことで、公瑾さんが怒られたりしませんか?」
 自分は玄徳軍にいたから玄徳と孔明への報告が先だろうけれど、公瑾は上司である仲謀へ先に報告しなければばらないのではないか、ということに今更ながら気がついた。
「大丈夫ですよ」
 その程度で激昂するほど仲謀は狭量ではないが、花と仲謀の出会いは好意的ではなかったから、心配になったのだろう。
「本当ですか?」
「ええ」
「よかった。私のせいで公瑾さんが怒られるなんて嫌ですから」
 安堵し微笑む花に、公瑾は二藍色の瞳を細める。
「あなたのためなら怒られても構いませんけどね」
「公瑾さんが構わなくても私が構うんです」
 ぷうっと頬を膨らませる花が可愛いくて、公瑾は華奢な身体を抱き寄せた。
「こ、公瑾さん?」
 ここ回廊ですよ?などと、戸惑った声が上がる。
「ここでなければいいんですか?」
「…っ、それ、は……」
 否定も肯定もできない問いに声を詰まらせる花に、公瑾はにっこり微笑んだ。
「お答えいただけないのでしたら、是ということでよろしいですね」
 公瑾は花の耳元へ唇を寄せる。
「あなたが悪いのですから、責任を取っていただきますよ、花。」
 甘く囁かれて、耳まで瞬く間に赤く染めた花は動揺を隠すように、公瑾の胸に顔を埋めた。




―終―



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