帰結




 荊州へ戻るため玄徳たちが出立した日の翌日。
 花は卓の上に広げたと竹簡を前に、困り果てていた。この竹簡は師匠であった孔明から昨日の帰り際に「芙蓉殿から預かっていたのをうっかり忘れてたよ」と悪びれることなく手渡された物。
 昨夜は昼間色々な事があり疲れていて早々に床へ入ったので、目を通していなかった。
 それを朝食が済んだ今こうして目を通しているのだが、こちらの世界で使われている文字は花がいた世界と違う文字で書かれているため読めない部分が多い。玄徳軍にいた頃少しは勉強していたのだが、いかんせん読めない字の方がはるかに多い。それは初めからわかっていたことなのだが、芙蓉からということは手紙である可能性が高いと思えた。自分宛の手紙を誰かに見せるのは気が引けるので、なんとか判読できないかと頑張っているのだが、成果は芳しくない。
 花は溜息をついた。
「………ちゃんと教えてもらわないとだめかな、やっぱり」
 公瑾の傍にいたくて、この世界で生きていくと決めた。けれど、読み書きができない、一人で馬に乗れない、この世界の常識に疎いなど、できないことや知らないことばかりだ。それも自分ひとりでなんとかできる範囲ではないのが痛手である。
 せめて読み書きができれば、公瑾を手伝うことができるのに。無論、それには仲謀の許可が必要だろうし、公瑾が是と言わない限り無理なのだが。
 誰かに教えてもらいたいと思って浮かんだのは、恋人である公瑾だった。
 けれど彼は参謀と都督を兼任しているから政と軍との両方の仕事があり、日々忙しいことを花は知っている。そんな彼に教えてもらうのは悪い。
 公瑾以外で子敬はどうだろうかと考えたが、子敬とて仕事があり、教えてもらうとしたら休憩や夜などの空いている時間になる。いくらなんでも休息時間を奪うようなことはできないし、したくない。
「……尚香さんとか…?」
 そう呟いて、いいかもしれないと思った。
 尚香の時間を割いて教えてもらうことに戸惑いはあるが、彼女の都合がよい時に短時間でも教えてもらえたら嬉しい。
 尚香さんに教えてもらえないか頼んでみよう。
 そう決めて、花は芙蓉からの手紙を引き出しにしまい、尚香の部屋へ向かった。


 尚香の部屋の近くには警護のための兵士が立っている。玄徳軍の使者として滞在していた期間は長く、尚香や大小姉妹と仲良くしてもらっていたので、花は兵士に止められることなく目的の部屋へ着いた。
 一瞬躊躇った後、部屋の扉を軽く叩く。
「花です。尚香さんいますか?」
「花さん? どうぞ入ってください」
 迎え入れる声に花は扉を開けて室内へと入った。
「お邪魔します」
「花さん、なにかあったのですか? 困った顔をなさっているようですけど」
「ええっと、ちょっと尚香さんに頼みたいことがあって…」
 尚香に席を勧められ、花は腰掛けた。
「私に頼み事とはなんでしょうか?」
 花の向かいに座った尚香が問うた。
「あの、無理なら断ってもらっていいんですけど、私に字を教えてもらえませんか?」
「字を?私が花さんに?」
「はい。実は私、読み書きができないんです。それでもしよかったら尚香さんに教えてもらえないかなって」
「それは構いませんけど、私よりも公瑾に教えてもらうほうがいいのではないですか?」
 尚香の言うことは的を得ている。花も初めは公瑾に、と考えたのだから。
「初めはそう思ったんです。でも、公瑾さんは忙しそうだから悪いかなって思って」
 そう言ってから、花は慌てて言葉を付け加える。
「あのっ、尚香さんが忙しくないとかそういうことを言ってるわけじゃなくてっ」
「ふふ、わかっています」
 にっこり微笑む尚香に、花は尚香さんが優しい人でよかったと胸を撫で下ろした。
「あの、それで…」
「ええ、私でよければ喜んで」
「あ、ありがとうございます!尚香さんが空いてる時間に少しだけでいいので、よろしくお願いします」
「人に教えたことがないので上手くできるかわからないですけど、こちらこそよろしくお願いしますね」
 今日は大小姉妹が市に行くので城に居ないということもあり、花はさっそく尚香から教えてもらうことになった。静かなほうがはかどるだろうと思ったのは、姉妹にはもちろん内緒だ。



 花が尚香から読み書きを教えてもらうようになって五日が過ぎた夕方。
 明後日の午後にと約束をし、花は尚香の部屋を出た。
 夕陽が照らす回廊を自室へ向かって歩いていく。
 花はいくつかの書簡を抱えるようにして持っている。尚香が幼い頃勉強する時に使ったという書簡だ。初心者の花にはわかりやすくていいのではないかと薦められ、花もそう思ったのでありがたく貸りてきたのだった。
 これがあれば一人でもできる。
 そう思うと、花の頬は緩んだ。
 一日でも早く覚えて、少しでも公瑾さんの力になれたらいいな。
 そのためにも頑張ろうと、と花が決意を新たにした時。
「花」
 不意に名を呼ばれて驚いたものの、花は満面の笑みを浮かべた。
 花の瞳に映るのは、優雅な笑みを浮かべている恋人の姿。
 昨日の午後に逢ったきりで、今日は一度も顔を見ていなかった。忙しい人だから顔を見られなくても仕方がないと思うけれど、こうして逢えたのは嬉しい。心が嬉しさで満たされる。
「公瑾さん」
 喜色溢れた声で花はこちらへ歩いてくる人の名を呼ぶ。
「そこにいてください」
 花が駆け寄ろうとすると、制止の声がかけられた。
 言われた通りに待っていると、公瑾は花と半歩分の距離まで近づき足を止めた。
「転んだらどうするつもりです」
「え?」
 きょとん、と首を傾げる花に、公瑾は少し呆れたような顔で溜息をつく。
「両手が塞がっているでしょう」
「あ…」
 そうだった、とばかりに花は声を零す。
 思いがけず公瑾に逢えたのが嬉しくて、書簡を持っている事が頭から吹き飛んでいた。
「公瑾さんと逢えたのが嬉しくて、書簡を持っているのを忘れていました」
「……っ、あなたという人は……」
 逢えたのが嬉しくて、などと言われたら怒れないではないか。
「すみません。呆れちゃいましたか?」
 見上げてくる鳶色の瞳は不安そうに揺れている。押さえ込んだ声を、彼女は怒っているのだと判じたらしい。
「ええ、呆れましたよ」
 冷たい声で言われて、花の瞳が大きく震える。
「き、嫌――」
「あなたが可愛らしいので」
 花の震える声に重なったのは、柔らかな声。
 言われた意味を理解すると同時に花の頬が真っ赤に染まっていく。
「どうしました?顔が赤いですよ」
「だ…って、公瑾さんが……変なこと言う、から…」
「花が可愛いと言っただけで、変なことなど言っていませんよ」
「だ、だからっ……」
 真っ赤な顔で見上げてくる花に公瑾は穏やかな声で言う。
「花、部屋まで送ります」
「……ありがとうございます」
 何事もなかったように話を変えて微笑む公瑾に、花は礼以外の言葉が浮かばなかった。

 夕陽で赤く染め上げられている回廊を二人並んで歩く。
 花が尚香から借りてきた書簡は公瑾が持ってくれている。
「転んで怪我をされても困りますから、私が持ちましょう」
 そう言って、花が返事をする間もなく、手から取り上げられた。怪我をされても困る、という言葉に隠された公瑾の優しさが表情から伝わってきたから、花は素直に甘えた。
「……ところで、花、この書簡はどうしたのです?」
「尚香さんから貸りたんです」
「尚香様に?」
「はい。子供向けのらしいんですけど、私にはちょうどいいと思ったから、貸してもらったんです」
「ちょうどいい?」
 僅かに低くなった公瑾の声に、花は緩く首を傾げた。
 あれ?何もおかしいこと言ってないよね。
 けど、公瑾さんなんだか怒ってるみたい……。
「ええと、こっちの世界の字を知らないと不便ですし、早く覚えたいなって思ったんです」
「覚えたいと言うのなら、なぜ私に言わないのです?」
「え?」
 花はきょとんとした顔で瞳を瞬く。
「ですから、どうして尚香様にお教えいただいているのかと訊いているのです」
「公瑾さんが忙しそうだからですけど」
 公瑾がどうして苛立っているのかわからない花は、思うまま口にした。
「朝から晩まで仕事をしているわけではありません。あなたに教える時間は十分あります」
「でも、公瑾さんが休む時間がなくなっちゃうじゃないですか」
 その言葉に公瑾は瞳を眇めた。いつでも花は他人を気遣ってばかりいる。それは彼女の美徳ではあるが、もう少し自分を頼りにしてくれてもよいのではないか。
「……私に言わなかった理由はそれですか」
「だって、公瑾さんに迷惑をかけちゃいますし……」
「迷惑ではありません。 明日からは私がお教えします」
「でも…」
「私に教わるのは嫌なのですか?」
「嫌なわけありませんっ!すごく嬉しいです、けど……」
「けど、なんです?」
「公瑾さんの邪魔になりたくないんです」
「邪魔になどなりません。あなたが傍にいないほうが仕事に差し支えます。ですから、いいですね」
「――っ、はいっ」
 公瑾は自分を見上げて嬉しそうに笑う花に僅かに微笑んだ。



 翌日、花は公瑾の執務室へ顔を出す前に、尚香の部屋へ向かった。公瑾が教えてくれることになったと話をするためだ。
 花が昨日の経緯を話し終わると尚香は一瞬驚いたようだったが、にっこり笑って言った。
「よかったですね、花さん」
「え?」
 意味がわからず、花は首を傾げる。
「公瑾はあなたといたくて、勉強を口実にしたのだと思います。そうすれば気兼ねなく花さんに逢えますし、話もできますから」
「――っ」
 花の頬が熟れた果実のように赤く染まるのを見て、尚香はくすっと微笑んだ。




―終―



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