赤い花




 春の優しい陽射しが降り注ぐ庭園の一角に東屋がある。
 そこでは現当主の妹である尚香、大小喬姉妹、そして数日前にこの世界に残ることを決めた花の四人が集まって、茶会という名のおしゃべりに花を咲かせている姿が時々見られる。だが今日は花を抜いた三人が、話に花を咲かせていた。
「それってさあ…」
 尚香の話を聞き終え、大喬は小喬と視線を交わす。
「公瑾の」
「やきもちだよねー」
 小喬と大喬が声を揃えて言うと、尚香は苦笑しながらも頷く。
「ええ。 花さんはわかっていらっしゃらないようですけど」
 十日前の朝、「公瑾さんが教えてくれることになったんです」と自室に報告に来た花の姿を思い出し、尚香は言った。
 今日までその話を持ち出さなかったのは花がいたからで、たまたまいない今日、そういえばと尚香は大喬と小喬に話をしたのだった。
「うーん、花ちゃんて、鈍そうな気がするなあ」
 小喬が呟けば、隣で大喬が頷く。
「うんうん。公瑾はちょっと奥手だしさあ」
 そこで姉妹は顔を見合わせて、にかっと笑う。二人が何かをたくらんでいる時の笑みだ。
「でもいいこと聞いちゃったねー」
 弾んだ姉妹の声に、尚香は言ったことを後悔したが、すでに遅い。
 花さん、公瑾、ごめんなさい…!
 二人に心の中で謝罪した尚香の向かいから、大小姉妹の姿は消えていた。


 三人が茶会をしている頃、花は公瑾に頼まれた書簡を書庫へ届けていた。
 五日前から、花は公瑾の執務室で読み書きを教えてもらっている。当然ながら公瑾には仕事があるので、教えてもらうのは彼の休憩時間だ。それ以外の時間はそこで自習しているか、こうして書簡を届けたりして過ごしている。
「…公瑾さん、私にできることあったら言ってください。少しでも公瑾さんのお手伝いがしたいんです」
 読み書きを教えてもらえることになった初日、花は思い切って言った。
 自分にできることはほんの僅かしかない。けれど、できることがあるのなら手伝いたい、という花の気持ちは彼女の真っ直ぐな瞳に現れていた。
 公瑾は額を押さえ、軽い溜息をつく。
「仕方ないですね。あなたは言い出したら聞きませんし」
 呆れながらも、公瑾の声は優しい。
 そうして花は勉強を教えてもらう傍ら、公瑾の手伝いをすることになった。
 それから五日が経ち、ようやく手伝いに慣れてきた。ただ、公瑾が場所を教えてくれているのに、書簡を持っていくべき所へたどり着けずに迷子になることもあるので、道順を早く覚えなくてはと思う。見取り図はないのか、と聞くと、私は必要ありませんので、と言われ、更には、だからと言って子敬殿に貸りたりなさらないでくださいね、と言葉は続いた。どうしてかと思った花は、少し考え、その理由に行きついた。尚香から書簡を貸りていたことに、公瑾はよい顔をしなかった。それと同じことなのだろうとわかった。もっとも、その理由はわかっていないのだけれど。今度小喬たちに聞いてみようか、とその後の惨事になど考えが及ぶはずもなく、花は思った。
「失礼します」
 花は一礼し、退室した。
 公瑾の執務室へ続く磨き上げられた廊下を歩いていく。京城は南国に位置している為、宮殿は開放的な作りで、部屋や回廊に明かりが差し込むようになっている。
 心地よい春風と柔らかな春の陽射しを肌に感じながら、執務室へと戻った。
 執務室への出入りは自由――声をかけて入室しなくてよい、と公瑾から許可が出ている花が扉を開ける為に手を触れた時。手に力を入れるより先、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
「いたーっ!」
「尚香ちゃんが言った通りだねー!」
 声がした方――背後を振り返ると、こちらに走ってくる大喬と小喬の姿があった。二人はこちらへ向かって庭園をすごい勢いで走ってくる。
 欄干越しに向けられた二対の瞳に、花は思わず後ろへ一歩引いた。にやにやと笑みを浮かべた瞳と口元が、よくないことの前触れであると告げている。
「あ、あの、大喬さん、小喬さん、公瑾さんが仕事しているので、静かにしてもらえますか」
 執務室の方へちらりと視線を向ける花に小喬と大喬は頷く。
「わかってる。うるさくしないよ」
「私たち、確認しにきただけだもん」
 大喬の言葉に花は緩く首を傾けた。
「確認て何をですか?」
 そういえば、先ほどの尚香が言った通りと叫んでいた事と何か関係あるのだろうか。だが関係あるとしても、花にはどういうことかさっぱりわからない。
「花ちゃんと公瑾が仲良くしてるかどうかだよ」
「えっ?私、公瑾さんと喧嘩なんてしてないですよ」
 小喬に言われた花は、笑顔でそう答えた。すると小喬は大喬と顔を見合わせて、盛大な溜息をついた。それを見てなぜ溜息をつかれるのだろうと花は思ったが、二人が言っている事と自分が思っている事に違いがあるのがわかっただけで、答えはでない。
「あの…?」
「教えて欲しい?」
 楽しそうに笑う大喬に花は首を横に振った。
 聞かないほうがいい、と本能が警鐘を鳴らしている。
「いえ、いいです」
 逃げるが勝ちとばかり、花は扉を開けて執務室の中へ逃げ込んだ。扉をばたんと閉めて溜息をつく。
「……あ、公瑾さん出てるんだった」
 先程花が書簡を書庫へ持って行くよう頼まれた時、「子敬殿に用事があるので執務室を空けますが、あなたは戻ってきたら続きをしていてください」と言われていた。
 公瑾がここで仕事をしていたなら大喬と小喬の声は聞こえていただろうし、彼が外の騒ぎに出てこないはずがない。なにより、公瑾が花を助けないはずがないのだが、それは花だけが気がついていない。
 二人は帰っただろうかと考えた花は、公瑾が戻ってきたらまずいのではないかということに気がついた。
「ど、どうしよう……」
 大小喬姉妹がまだいるかもしれないから、扉は開けられない。
「――あ、向こうの扉、開かないかな…?」
 普段あまり使われることがない扉が花の瞳に映る。
 開くかどうか試してみようと部屋の反対側に急ぐ。
 扉まであと一歩程の距離まで近づいた時、不意に扉が開いた。
「こ――」
 公瑾さん、と名を呼ぶはずの口が大きな手で塞がれる。
「静かにしてください」
 こくんと頷くと、公瑾は手を離した。
「花、小喬殿たちに会いましたか?」
「は、はい。帰ってくる時に部屋の前で。けど、どうして公瑾さんが知ってるんですか?」
「それは後でお話します。今はここを離れましょう」
「え、でも、お仕事は?」
「今日の分は終わりましたから、問題ありません。 行きますよ」
 公瑾は花の手を取り、開けたままの扉から連れ出す。
 どこに行くのかわからなかったけれど、花は公瑾についていった。



 温かな春の陽射しが降り注いでいる。風は凪いでいるので心地よい。
 花は一人で馬に乗れないので、今日も公瑾と二人乗りだ。
 こうして公瑾と馬に乗るのは初めてではない。けれど、恋人になってから初めてだなと考えたら、ちょっと気恥ずかしくなった。それに加え、公瑾の腕に挟まれるような形で、跨ぐのではなく横向きに騎乗しているからなおのこと気恥ずかしさが増している。ごく近くに公瑾の顔がある。そう思うと心臓がどきどきしてしまって、どこに視線を定めればいいのか困る。落ちないようにと公瑾が手綱を持つ手で器用に背中を支えてくれていて、それもまた花を落ち着かない気分にさせた。
「花、横向きに乗ってくださいね」
 馬に乗る際、花に手を貸しながら公瑾は言った。常の笑顔ではなく真面目な顔をして言われたので、花は理由が問えずに頷いた。
 そうして今に至るのだが、花は公瑾がなぜ横向きでと言ったのか、まだわからずにいる。
 ……気になるし、聞いてみようかな…。
 京城から三里は離れただろうから、今更な問いではあるのだが。
 花は手綱を操る公瑾を見上げた。視線に気がついた公瑾の瞳が向けられて、花は目を奪われる。光の加減だと思うが、公瑾の瞳の色が紫水晶のように見えて、それがとてもきれいだ。
「……花。どうしました?」
 気遣う声に花は我に返り、目元を微かに赤く染める。
「す、すみません。公瑾さんに見惚れていま――」
 はっとして口元を押さえるが、すでに遅い。
 公瑾は花の言葉に驚いて刹那瞳を丸くし、微苦笑を浮かべる。
「相変わらず予想外なことを言いますね」
「だって、公瑾さんの目がきれいだったから……」
「……花の瞳のほうがきれいですよ」
 瞳を細めてうっとりと微笑む公瑾に、花は一瞬にして顔を真っ赤にした。
 それを見た公瑾は、くすっと笑う。
「ずっと見つめていたいですが、馬に乗っていてはそうはいきませんね。残念です」
 花はこれ以上は無理というほど更に赤くなり、公瑾から視線を逸らした。照れてしまって、聞いてみようと思っていたことは花の頭からすっかり吹き飛んだ。
 口を開くとまたとんでもないことを言ってしまいそうで、けれど、せっかく公瑾と二人でいるのだから話しをしたいと思うしで、花はそわそわと視線を彷徨わせてしまう。
「…こ、公瑾さん」
「はい?」
「どこへ行くんですか?」
「あなたが喜んでくれそうなところ…とだけ、言っておきましょうか」
「えっ?公瑾さんが行きたいところじゃないんですか」
 てっきりそうだと思っていた花は驚いた。
「私は花が一緒にいるのなら、どこでも構いません。ですから、あなたが喜んでくれそうな場所へと考えるのは当然でしょう」
 穏やかな声はいつもと変わらない。けれど、言葉は甘くて、見上げた瞳に映った顔が優しく微笑んでいて、身体が火照る。
 嬉しくて、幸せで、溶けてしまいそう…。
「………ありがとうございます。すごく嬉しいです……」
 公瑾を見ては言えなくて、口の中で呟くように言うのが精一杯だった。
 そこで会話は途切れたが、沈黙が穏やかで心地よい。
 沈黙の心地よさに浸っていると、もうすぐ着きますよ、と公瑾の声が降ってきた。
 広がる風景をぼんやりと夢見心地に見ていた花は、視線を馬が歩く方へ滑らせる。
 目の前に広がる光景に、花は鳶色の瞳を輝かせた。
「わあっ…!」
 恋人の喜色溢れる声に公瑾は頬を緩ませる。
 今日の午後は休みを取っていて、遠乗りにお誘いするつもりだったのです。
 そう言ったら花はどんな顔をするだろうと思いながら、少しばかり馬の歩を進め、花々が広がっている手前で手綱を引き馬を止める。
 下馬した公瑾は花へ腕を伸ばす。そして花の腰を抱くようにして、華奢な身体を軽々と馬から降ろした。
 とん、と地面に優しく下ろされる。
 馬に乗る時もそうだったが、嬉しいけれど照れくさくて、花の頬は淡く染まる。
「あ、ありがとうございます」
 恋人になる前も、公瑾は馬の乗り降りに手を貸してくれていた。けれど、こうして馬から降ろしてもらったのは初めてのことで、それが相愛の相手であるから、公瑾の顔が真っ直ぐ見られない。
 頬を染めて視線を僅かに外す恋人に公瑾は口元に僅かな笑みを刻む。
 恋愛経験がないという彼女は、ちょっとしたことですぐに頬を赤く染めてしまう。そんな初さがたまらなく可愛くて、自分以外の誰かに見せたくない、独占したいと思う。
「恋人に手を貸すのは当然でしょう」
 花は驚いたように公瑾を見、耳まで赤く染めた。
「……花、少し歩きませんか」
「は、はい」
 公瑾は花の華奢な手を取り、離れないようにしっかり繋ぐ。花は一瞬迷った後、そっと公瑾の手を握り返した。
 公瑾は僅かに笑みを深め、花の手を引いて歩き出す。
「……たくさん咲いてて、可愛いですね」
 花は嬉しそうに笑いながら、一面の花畑へ視線を向ける。
 小さな赤い花――蓮華が咲き乱れている風景に心が和む。
「蓮華より花のほうがずっと可愛いですよ」
「こっ、公瑾さん……」
 ぼっ、と顔を赤く染める花に公瑾は楽しそうに微笑む。本当に彼女は表情がころころ変わる。見ていて飽きない。だから、もっと見たいと思ってしまう。
「本当のことですよ」
「……かっ、からかわないでください……」
 火照った顔を見られまいとして花は俯く。そういう仕草が公瑾を煽る材料としかならないことに、花は気がつかない。
「本当に可愛い人ですね、あなたは。それに、無防備だ。恋人のそのような可愛い仕草を見て、私が何とも思わないとでも思っているのですか」
 繋いだ手はそのままに、公瑾は花の腰へ腕を回して抱き寄せる。
「こっ、公瑾さんっ!?」
「花、あなたが可愛すぎるからいけないのですよ」
 抱きしめられる腕の強さが増し、公瑾との顔の距離が近くなる。
 春風が花の香りを運ぶ中、花は頬を赤く染めながら鳶色の瞳を閉じた。
 二人の足元で、蓮華草が楽を奏でているかのように揺れていた。




―終―



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