二つ目の約束




 昼を僅かに過ぎた頃、花は荊州へと戻る玄徳たちの見送りのため、京城の船着場へと来ていた。
 花も玄徳たちと一緒に荊州へ戻るはずだったが、数刻前にその予定はないものとなったからだ。
 その一行の中には、公瑾の姿もある。忙しい身の上だが、玄徳たちを見送るのに花を一人で行かせたくなく、幸いにして早急に処理が必要な仕事がないため、同行してきていた。
 自分が知らないところで花と玄徳が話をする。
 それがただの世間話であって、二人きりでなくても、不快で、癇に障る。
 それが理由だ。
 恋仲でなかった頃から花の口から玄徳の名が出るだけで琵琶の弦を切るなどの失態をしていた公瑾だが、想いが通じ合い恋仲となった今はそれに拍車がかかっていた。
 花が自分以外の異性と親しくしているのは気に入らない。その筆頭が劉玄徳だ。花の周囲にいる男の中で一番気に入らない。


 二人が恋人という関係になるまで、色々なことがあった。
 玄徳軍と仲謀軍の同盟を結ぶための使者として、花は師匠である孔明と共に柴桑を訪れた。
 それから花は、孫仲謀に玄徳が本当に孫家と同盟を結ぶ意志があることを証明するため、孫軍へ残ることになった。この同盟はなんとしてでも結ばなければならなかった。曹孟徳に対抗できる手段として有効であったからだ。
 けれど、同盟を結んだ後も玄徳軍の元へ戻れず、好機を見つけ戻らねばと思っていた花だが、孫家の軍を束ねる総指揮官である公瑾と行動を共にし、彼のことをもっと知りたいと思い始めた。
 公瑾に惹かれていくのを止められなかった。
 虚偽の婚儀を阻止し、公瑾が回復した今、花には京に留まる理由がなかった。公瑾のことが好きだけれど、彼には小喬という婚約者がいると信じていた。だから公瑾に別れを告げ、荊州へと戻り世話になった玄徳軍のみんなに別れを告げ、元いた世界へ帰るつもりだった。
 けれど、婚約者というのは周囲が勝手に盛り上がっていただけで、彼女とはただの友人です、と彼の口から誤解だと聞かされ、好きだ、と、傍にいて欲しい、と言われた。
 花も公瑾の傍にいたかったから、彼と一つの約束を交わし、この世界に残ることを決めた。
 公瑾と離れたくなかった。
 その後師匠の孔明や主君の玄徳への説明が大変だったが、京城へ残ることの許可が出、今に至る。


 長江には、孫家所有の大型の闘艦や小型船が何艘も浮かんでいる。今のところは曹孟徳の動きがないので、兵士たちの姿はあっても港は穏やかな雰囲気だ。
 当初玄徳たちは陸路を行く予定であったが、孫家が船を出してくれるという話になり、船で荊州へと戻ることにした。水軍が強い孫軍の船ならば、陸路を戻るよりも早く荊州へ戻ることができる。陸路と違い、道中で馬を換える必要がないし、休憩を取らずともよいなどの利点がある。それに、長期に渡り城を空けておくわけにはいかない。右腕である雲長、翼徳などが城に残ってくれているが、早く戻るに越したことはない。ゆえに玄徳は申し出をありがたく受けた。
「――花、元気でな」
 妹のように可愛がっていた花との別れは寂しい。けれど、彼女が決めた事に玄徳は反対しなかった。
 玄徳軍の使者という立場の花が京に残ることで、色々とやらねばならぬことができたが、それも花のためならば成してやろうと思う。
 この世界に残るということは、彼女は家族や友人と永遠に別れることになる。その寂しさは計り知れない。ならばせめて、自分たちが家族の変わりになれれば、彼女の寂しさを少しは減らせるだろう。
 荊州が花の戻る家――実家となれればいい、と玄徳は思っている。
「はい。玄徳さんもお元気で。みんなによろしく伝えてくださいね」
 花は屈託のない笑みを玄徳へ向ける。
「ああ。 お前は少し無理しすぎる所があるから、気をつけろよ」
 習慣のように花の頭を撫でようとした玄徳だが、不意に殺気を感じ、空中で手を止める。玄徳は花の隣に立つ公瑾へと視線を滑らせた。そこが殺気の源であったからだ。
 だが、感じた殺気が嘘だったかのように、公瑾は常の笑顔を秀麗な顔に浮かべている。
 もしかしなくても、これは嫉妬ではないかと玄徳は思った。
 午前に花と一緒に部屋へ来た時は赤壁の戦いの折に見たのと同じ腹の読めない笑顔だったのを思うと、一瞬垣間見せた殺気は本物だろう。
 花もとんでもない男を好きになったものだ。だが、花だからこそ公瑾は心を許したのだろうとも思う。
 玄徳は苦笑し、花に触れずに手を引いた。
 波風を立てる気はないし、自分が帰った後で花が何か言われたりしたら可哀相だ。
 公瑾殿は独占欲が強いようだな。花も大変そうだ。
 だが…そのほうが花は幸せになれるだろう。
 そう胸の内で呟いた玄徳だが、妹のように大切にしていた花を取られたという僅かな嫉妬心がなくもない。このくらいは許されるだろう、と家臣である孔明と同じことを玄徳も思った。
「花、いつでも好きな時に荊州へ戻ってくるといい。俺たちがいるところが、お前の家だからな」
 花は言葉通りに受け取り、嬉しそうな顔で「はい!」と頷いた。だが、隣の公瑾は顔には笑みを浮かべたままで、二藍色の双眸に剣を滲ませた。
「玄徳殿」
 低く鋭い声で名を呼ばれ、玄徳はふっと口元に満足そうな笑みを浮かべた。
「ま、こっちへ来る時は公瑾殿の許可がなくては駄目だろうが、いつでも歓迎するぞ」
 ではな、と笑って、玄徳は二人に背を向け船へ向かった。

 船影が港からゆっくり遠ざかっていく。
 それを見送る花の鳶色の瞳が僅かに潤む。
「……寂しいですか?」
 優しく気遣ってくれる声に素直に頷いて、でも、と花は公瑾を見上げた。
「公瑾さんがいてくれるから平気です」
 海路にしろ陸路にしろ、会いに行くのは簡単ではない。それに、この世界は花がいた世界と違い、今は穏やかでもいつ戦が起こるかわからない乱世だ。今生の別れとなる可能性だって絶対にないとは言い切れない。
 けれど、この世界で一番最初に出会い、助けてくれ、世話になった玄徳より、花は公瑾を選んだ。そこに迷いはない。
 だから公瑾が傍にいてくれるのなら、大丈夫だ。
「……そろそろ戻りましょう。遅くなると子敬殿たちが呼び来るかもしれませんしね」
 心配をさせないようにと強がる花の背に触れ、公瑾は促した。



 空が藍色に染まった頃、公瑾は仕事を切り上げた。
 数刻前に見た、平気ですと強がっていた花の様子が気になって、仕事に集中できない。
 私室へと戻りながら考えるのは、花のこと。
 泣くまいと涙を堪えていた、彼女。
 部屋で休むようにと自室まで送り届け仕事に戻ったのだが、あの後彼女はどうしているだろうか。
 一人で泣いていたりしないだろうか。
 そう思ったら居ても立ってもいられず、外した鎧を半ば放り出し、花の部屋へ急いだ。
「花」
「………っ、…公瑾、さん…」
 扉越しに届いたのは、涙声。
「入りますよ」
 許可を待たずに扉を開け、公瑾は部屋へと入った。扉を閉め、鍵をかける。このような刻限に訪れる者はいないだろうが、邪魔をされない為に。
 床に敷いた敷物に座り涙を拭う花の前に公瑾は腰を下ろした。
「……そのように手で擦っては駄目ですよ」
 これを、といつぞやの時と同じように、公瑾は布を花に差し出す。花は礼を言ってそれを受け取った。
 いつから泣いていたのだろう。痛々しいほど目が赤い。
 平気だと言った彼女の意志を尊重したのだが、やはり我慢できなかったのだろう。
 公瑾は彼らしくなく強引に、花の背へ両腕を回して華奢な身体を引き寄せた。突然のことに驚く気配が伝わってくる。
「……平気だなんて、嘘ではありませんか」
 苛立った声に、花は涙の乾ききらない瞳を瞬く。
「…嘘なんて何も…」
「昼間確かにあなたは、私がいるから平気だと、そう言いましたよ」
「え…?ち、違いますっ」
「何が違うのです?」
「泣いていたのは玄徳さんたちと離れたからじゃなくて……本が……なくなっていて、それで……」
 公瑾は驚愕に瞳を瞠る。
「…鍵のついた引き出しに入れてたから、盗まれたとかじゃなくて…なくなったんだと思います。……ここに残るって決めた、から、なくなっても困らないのに、引き出しを開けたらなく……てっ、寂しくな…っちゃ…っっく…ご、ごめんなさ…っ…」
 涙腺が崩壊しぼろぼろと涙を零す花を公瑾はそっと抱きしめる。
「謝らなくてはいけないのは私の方です。勘違いしてすみません」
 公瑾は涙の溢れる目元へ唇を寄せ、それを優しく拭った。
 びっくりして涙が止まった花の頬を公瑾は両手で包み込む。
「あなたが故郷を思って泣くのを責めるなどしませんよ。ですが、泣きたい時は言ってください。あなたが泣いているのを知らずにいるのは嫌なのです。ですから、寂しくなって泣きたい時は、一人で泣かないで私を呼んでください」
「公瑾さん……」
「泣きたくなったらここで――」
 己の胸へ花の頭を抱くように、抱きしめる。
 着物に焚き染められた香の香りに花は瞳を閉じた。
「…………そんなこと言われたら…いっぱい甘えちゃって、公瑾さんが困りますよ」
 その言葉に公瑾はふっと優しい微笑みを浮かべる。
「困りませんよ。あなたを甘やかすのは私だけの特権ですし、誰にも譲れません」
 耳元で優しく囁かれて、胸が温かくなる。
「……花、約束してください。 一人では泣かない、と。そう、約束してくれますね」
 花はこく、と小さく頷いた。
「……二つ目、ですね…公瑾さんとした約束と今のと……」
 公瑾の着物の胸元を華奢な手ぎゅっと握り、広い胸へ顔を埋める。再び溢れだした涙を公瑾に見られないように。彼の優しさに甘えるように。
 これから先、故郷を、家族や友人を思って泣くことが何度もあるだろう。
 それを彼は許してくれて、傍にいてくれると約束してくれた。
 寂しさと嬉しさがない混ぜになって、涙が止まらない。
 縋りつくように身を寄せてくる花の心を癒すように、公瑾は恋人が泣き止むまで華奢な身体を抱きしめていた。




―終―



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