以前は気にしなかったのに 昼下がり、尚香からお茶に誘われていた花は、彼女の私室へ向かっていた。 美味しいお菓子があるのですよ、と聞いて頬を緩ませながら歩いていた花だが、ふとその表情が曇った。 鳶色の瞳に映るのは、恋人である公瑾と数人の侍女たち。 以前にも、こんな光景を見たことがある。 江陵で怪我をした公瑾は、復帰後も心配した侍女たちに囲まれていた。その時は大変そうだなと思ったけれど、今のように胸は痛くなかった。 それなのに、今は胸が痛い。ぎゅっと締め付けられる。こんな場面を見ても以前は気にしなかったのに、今はとても気になる。 公瑾は都督という地位に群がっているだけだと言っていたけれど、花はそれだけではないと思っている。彼の穏やかな気質や優雅な立ち振る舞い、優れた琵琶の才など、都督という地位ではない彼自身が持つ魅力に惹かれているのだ。 着飾ったきれいな女性たち。宮廷に上がれる娘というのは、家柄があり、教養がある娘に限られるのだと聞いたことがある。 自分とは全然違う。自分はきれいでもなく、家柄もない。教養さえようやく覚えてきた程度で、知らないことも学ぶべきことも多い。それに、「魅力もないし、公瑾様と全然お似合いではないわ」と侍女たちが話しているのを聞いてしまったことさえある。 侍女たちの話にも胸は痛んだけれど、今よりは痛くなかった。 以前は気にしなかったのに、公瑾が女性に囲まれているのが今は気になってしかたない。 公瑾の隣にいて釣り合いのとれる、見劣りしない女性たち。 相愛なのは自分なのに、それは違うと否定されるような光景。 瞳を逸らしたいのに逸らせなくて、立ち去りたいのに足が動かない。 嫌なのに。 見たくないのに。 立ちすくんでいると、不意に公瑾と瞳が合った。 花は公瑾に背を向け、その場から駆け出していた。あんなに動かなかった足が嘘のように動いて走っている。 逃げないといけない理由はない。だが、いたくないと思ったのは事実。 涙が頬を伝い落ちてくるのも構わず走っていた花は、強い力で後ろに引っ張られた。突然のことに悲鳴も出ないまま、身体が後ろへと傾ぐ。どうする術もなくぎゅっと瞳を閉じると、その瞬間背中に硬いものが当たった。 衝動的に振り向こうとした花の耳に安堵するような溜息が届く。 「何をしているのです。池に落ちるおつもりですか」 その言葉に驚いて目の前を見れば、水を湛えた池がある。あと三歩程進んでいたら池に落ち、びしょ濡れになっていた。 落ちずにすんでほっとしたのも束の間、助けてくれたのは公瑾で、花は怖くて振り返れない。彼がどんな顔をしているのか、どう思っているのか、知るのが怖い。 「……なぜ、逃げたのですか?」 問う声はいつもと同じで穏やかだが、それでも花は振り向けなかった。 公瑾さんが女の人に囲まれているのを見てるのが嫌だったんです、と言ったら、きっと呆れられてしまう。 「……私が嫌いになりましたか?」 「そんなことあるはずないですっ!」 無条件反射で花は身体ごと振り返り、否定の言葉を口に乗せた。 公瑾は顔を見せてくれた恋人に口端を僅かに上げる。 「ようやく顔を見せてくれましたね」 その言葉に策にはめられたのだと気がついたが、後の祭りだ。 「花、話してくれますね」 「…………呆れられるから、言えません」 花は公瑾から涙に濡れたままの瞳を逸らす。どうしてこんなに後ろめたい気持ちになるんだろうと思いながら。たまたま見かけてしまっただけで悪意も何もないのに、目撃してしまったのが悪かったように思えてくる。 「でしたら、呆れないと約束すればお話してくださるのですか」 僅かの沈黙の後、公瑾は溜息をついた。 「……どうして何も言わないのです?黙っていられてはわかりませんよ。 ……呆れないと約束してもお話いただけないのでしたら、仕方ないですね」 そう言って踵を返す公瑾の衣の袖へ、花は無意識に手を伸ばした。はっとして手を引くが、細い指が袖を掴んでいた一瞬を見ていた公瑾に引こうとした手を取られる。 「あっ……」 「話してくださるのですか?」 呼吸二つ分の間の後、花は公瑾から瞳を逸らして口を開いた。公瑾の顔を見ながら話す勇気がなくて。 「……公瑾さんの周りにいた人たちきれいな人ばっかりで、私じゃ公瑾さんに釣り合わないって言われてるみたいで辛くて…傍にいたらいけない気がして、……そ…相愛なのは私なのにって思ってたら公瑾さんと目が合って、気がついたら逃げてたんです」 「――つまり、嫉妬したということですか」 淡々とした言い方にかちんときて、花は顔を上げた。 「嫉妬したらいけませんか!?私だって妬くんです。全然きれいじゃないし、文字もまだよくわからないし、教養だってないってわかってます。けど、公瑾さんが好きなんだから、仕方ないじゃないですか!」 自棄になって矢継ぎ早に言った花の頬に触れ、公瑾は双眸を細める。 「嫉妬している顔も可愛いですね。……あなたはわかっていないようですが、あなたは魅力的ですよ。私の心をかき乱すのも、満たすのも、あなただけです」 言葉が終わるか否かで、そっと唇が重ねられた。軽く触れるだけの口付けだったが、花の頬は赤く染まった。 「傍にいて欲しいのはあなただけです。あなた以外を愛しいとは思わない。ですが、言葉だけでは、またあなたは不安になるのでしょうね」 花に虫除けをしなくてはと思い用意していた物がもう一役立ちそうだ。 人の口に戸は立てられないが、少なくとも花は笑顔を見せてくれるだろう。 こういった問題を片付けるには婚儀を挙げるのが一番なのだが、もうしばらく時間がかかる。 「そんなことないです…多分」 「多分?」 訝しげに眉を顰める公瑾に花は慌てて言い直す。 「い、いえっ、ないです」 「本当ですか?」 じっと見つめられて、花は緩く首を横に振った。 「……なるような気がします」 正直に白状すると、公瑾は喉の奥で笑った。 素直で可愛らしい恋人に愛しさが溢れて止まらない。 「でしたら、あなたが不安にならない物をお贈りしましょう」 「私が不安にならない物?」 「ええ。私の恋人はあなたですから、その逆も然りです」 「ええと、つまり、公瑾さんが私の恋人ってわかるような…?」 なんだかよくわからないけど、そういうこと…だよね? 胸の内で確認するようにごちる。 「明後日の朝、部屋にお届けしますので、受け取っていただけますね」 「は、はい」 そんなすぐに不安になりそうなのかな私、と思いつつ、花は素直に頷いた。 二日後の朝。 朝食の膳を使用人が下げてからほどなくして、女官が花の部屋を訪れた。 「花様」 「あ、はい。どうぞ」 公瑾の執務室へ行く前に少し復習しようかと思っていた花が扉越しにかけられた声に返事をすると、失礼いたしますと桜色の包みを手にした女官が部屋へと入ってきた。 「花様、公瑾様よりお届け物でございます」 「ありがとうございます」 一昨日はそんなにすぐに不安になりそうに見えるのかと思っていたけれど、いざこうして贈り物が届けられると嬉しさに頬が緩む。 こちらに置かせていただきますね、と卓の上に包みが置かれた。 「本日お召しになっていただきたいと公瑾様が仰っておられました」 花は鳶色の瞳を瞬いた。 「ってことは、これ、着物なんですか?」 「何が包まれているのかは聞かされておりませんが、おそらくはそうかと思います。 お開けになられてはいかがでしょう」 それもそうか、と花は包みを解いた。 「――っ」 声が出なかった。 包まれていたのは、撫子色の濃淡が美しい衣一式、小さな赤い花が連なる簪、刺繍が施された柔らかな皮の靴。 公瑾からの贈り物に頬を染め見惚れる花を女官は微笑ましそうに見つめた。 「花様は公瑾様に愛されていらっしゃいますわね」 言われて、「はい」と小さな声で頷くのが精一杯だった。 幸せで胸がいっぱいで、嬉しくてしかたがない。 「お召し換えなさいますか?」 「はい」 花は迷うことなく頷いた。 「あの、まだ着付けが上手くできなくて…手伝ってもらえますか?」 「もちろんでございます。おまかせください」 そうして女官は花を着飾らせてくれた。 花は遠慮したのだが、「公瑾様はお喜びになると思いますよ」と言われて心が動かされ、うっすらとだが化粧をしてもらった。 退出する女官を見送って部屋に一人になった花は、右手をそっと持ち上げて鼻に袖を近づけた。着付けてもらった時にもしかしてと思ったのだが、やはりそうだ。 衣に香が焚き染めてある。それも、公瑾と同じ香りのもの。 いい香りだから今度教えてもらえないかとこっそり思っていたから、その香りが衣に焚き染めてあって、花は嬉しさに笑みを浮かべた。 「……少し早いけど、いいよね。お礼も早く言いたいし」 一人ごちて、部屋を出た。 公瑾さんに早く逢いたい、とそればかり考えていたから、擦れ違う文官や兵士に挨拶した際、彼らの内の幾人かが驚いた顔をしていたことに花は気がつかなかった。 執務室の扉をそっと押し、室内へと入る。 「……公瑾さん、おはようございます」 「おはようございます。ずいぶん早いですね」 「あ、すみません。早くお礼を言いたくて。 ありがとうございます、公瑾さん。すごく嬉しいです。大切に着ますね」 公瑾は立ち上がり、はにかんだ笑みを浮かべる花に歩み寄る。 「……喜んでいただけて何よりです。よくお似合いですよ。ですが――困りましたね」 「え、何がですか?」 きょとんとした顔で花が首を傾げると、しゃらんと簪が鳴った。着飾っても、彼女の素直で無垢なところは変わらない。 「花があまりに可愛らしいので、仕事が手につかなくなりそうです」 「こっ、公瑾さん…!」 一瞬にして顔を真っ赤に染めた恋人に公瑾は双眸を細めて微笑む。 「本当です。ずっとこうしてあなたを見ていたい。そんな気にさせられます」 「――っ」 恥ずかしくて花は俯いた。しかし、公瑾の長い指が顎にかかり、顔を上げさせられてしまった。恋人にはどこか楽しんでいる様な色が見える。 公瑾に見つめられて瞳を逸らすことも閉じることもできず、真っ赤な顔で恋人を見つめる花の鳶色の瞳が恥ずかしさに僅かに潤む。 「……花、そういう顔をされると誘っているようにしか見えませんよ」 「ち、ちがっ……」 あわあわしながら一生懸命否定する花に、公瑾は目を眇めた。 「そんなに嫌がられるとさすがに傷つきますね」 「そんな!嫌がってなんてないですっ」 そう言った瞬間、公瑾は笑みを顔に浮かべた。花だけに見せる心からの笑みとは違う、軍師としての策が成功した時の笑み。 「だ、だましましたね!」 「だましたとは人聞きが悪い。あなたも軍師なのですから、このくらいは見破れなくては駄目ですよ」 あなたが悪いとでも言いたげににっこり微笑む恋人に、花は僅かにむくれた後、そっと瞳を閉じた。 それから数日後。 着物に焚き染められた香の意味を知り、これ以上はないほど真っ赤になって慌てる花の姿があった。 ―終― 嫉妬まじりの恋のお題 03. 以前は気にしなかったのに 恋したくなるお題様(http://members2.jcom.home.ne.jp/seiku-hinata/) 戻る |