隙だらけ




 漆黒の空に細い月牙が浮かんでいる。
 辺りはしんと静まり返り、聞こえるのは風が時折窓を揺らす音くらいだ。夏や秋であれば虫の鳴き声なども聞こえようが、春が終わろうとしている今、そういった声が聞こえる夜はほとんどない。
 静寂が満ちている宮廷のとある部屋から、僅かな明かりが零れている。
 その部屋は都督の任に就いている、周公瑾の執務室。
 火急な件や多忙な時でなければ、今時分まで仕事をしていることはない。
 だが公瑾が夜遅くまで仕事をしている理由は、そのどちらでもなく、私的な理由ゆえのことだった。
 公瑾はここ半月程休日を取れていない。今までもそういうことはよくあったし、毎日が多忙で休む間もないということはなく、仕事中に休息もとっている。彼はそれで平気なのだが、恋人である花が「ちゃんと休んでくださいね」と心配するのだ。
 花を心配させるのは本意ではないので、以前よりも休むようにしている。
 けれど小喬と大喬に言われて、公瑾は明後日の休日を明日に繰り上げることにした。明日の分の仕事を今日中に片付けてしまえば、明日休んでも問題はない。火急な仕事が入らない限りだが、公瑾でなくとも大丈夫な案件であれば仕事が回ってくることはないだろう。
 明日休む旨は子敬と仲謀へ伝え、許可をもぎ取ってある。二人が首を縦に振ったのは、公瑾が必死の態でありながら否を言わせぬ氷のような微笑みを浮かべていたからだったりするのだが。ともかく、休日が取れたのだから、後は今夜中に仕事を片付けるだけだ。


 大小姉妹が執務室へ駆け込んできたのは、今日の夕方。
 けたたましい音で扉を開けた姉妹は、仕事中の公瑾におかまいなしだ。
「公瑾の甲斐性なし!」
「なっ……」
 突然言うに事欠いて甲斐性なしなどと告げられては、呉一の知将も瞳を見開いて絶句する。来訪も突然なら言葉も突然過ぎて、不本意ながらすぐに言葉が出なかった。
 そんな公瑾に構わず、小喬に続き大喬が口を開く。
「花ちゃん寂しそうだよ」
「公瑾が仕事ばーっかりでかまってあげないから」
「時々すごく元気ないし。絶対公瑾が原因だよ」
 絶対を殊更強く強調した大喬の隣で小喬がうんうんと相槌を打つ。
 そんな二人に公瑾は困った顔で溜息をついた。
 花を構ってやれなくて寂しい想いをさせている自覚はある。彼女を構えないことに、自分でも不満がある。
 とどのつまりは、公瑾も花が不足しているのだ。
 そのため明後日丸一日休みを取ったし、花と過ごすために仕事をしている。
「あなたがたに心配していただかなくとも――」
「ちゃんとかまってあげないと、花ちゃん奪われちゃうよ」
「小喬殿、それはどういうことです?」
 常の笑みが跡形もなく消え、二藍色の瞳に剣呑な光が浮かぶ。
 公瑾の穏やかな笑みしか知らない者が見れば戸惑うかもしれないが、付き合いの長い小喬と大喬は動じなかった。
「公瑾さ、こないだ花ちゃんに衣を贈ったでしょ」
「ええ、贈りましたよ」
 虫除けと牽制に、と胸の内で続ける。
「それが何か?」
「その衣って公瑾の香を焚き染めてあったから、一応の効果はあったみたいだけど、効かなかった人がいるって知ってた?」
「……それは本当ですか?」
 感情の理性が切れた、氷のように冷たい声。
 小喬は頷いた。
「ちょっと前にたまたま聞いちゃっただけなんだけど。ね、お姉ちゃん」
「兵士さんたちが、着物を着た花ちゃんが可愛かったって噂してたの」
「可愛いから、いっつもああいう格好してくれたらいいのにとも言ってたよ」
「花ちゃん可愛いし、構ってくれない恋人より褒めてくれる兵士さんにぐらっていっちゃうかもしれないよ」
「うんうん。公瑾の香が焚き染めてあったって花ちゃんが一人でいるから、声かけられたりしちゃうんだよ」
「――……お二人とも、出ていってもらえますか。急用ができましたので」
 先程の冷たい声が嘘のように、いつもと同じ穏やかな声で公瑾は言った。表情も常の笑みに戻っている。
 だが、公瑾の内に隠した激情は抑えきれず、周囲にだだ漏れしていた。
「ちゃんと花ちゃんを捕まえてなきゃ駄目だよ!」
 小喬は公瑾に釘を刺し、姉と部屋を出て行った。


 公瑾は筆を置き、次の竹簡へ手を伸ばした。
 これで最後。ようやく終わりが見えたその時、控えめに扉を叩く音がし、公瑾は訝しげに眉を顰めた。兵に誰も通すな、と厳命してあるというのに。
「誰です?」
「あの、花です」
 誰何する厳しい声に、おずおずとした声が返されて、公瑾は慌てて立ち上がる。
 厳命してあっても例外はいる。上司である仲謀と、誰よりも大切にしている愛しい人――花。仲謀に厳命は無効であり、花に対しては公瑾が許可をしているのだ。
 まさかこのような時間に彼女が訪れるとは思ってもおらず、後僅かという時に邪魔がと、自分ともあろうものが冷静さを欠いていた。
「このような時間にどうしたのですか」
 問いかけながら扉を開いた公瑾は、花を見て驚きに目を丸くした。
「公瑾さんが夕食をとっていないって聞いたので、夜食を持ってきたんです」
「……一人で、ですか?」
 小喬と大喬の言葉が甦る。
「え、はい。そうですけど」
 不意に視線が鋭くなった公瑾に怯みつつ、花は頷いた。
「女人が夜遅くに一人で出歩くのは危険だと前にも言ったはずですが、お忘れですか」
「すみません。公瑾さんが夕食も食べないで仕事してるって聞いて心配で」
 花はしゅんとして俯いた。
 元をただせば、花が一人で訪れたのは自分が原因だ、とそんなことにも気がつかないほど頭が回転していない自分に公瑾は呆れた。
「……すみません」
「どうして公瑾さんが謝るんですか?夜一人で出歩いたら駄目だって言われてたのを守らなかったのは、私なのに」
「いいえ。あなたを心配させた私が悪いのです。 ともかく、中へ入ってください。そのような薄着では風邪を引きます」
「でも、お仕事の邪魔になるんじゃ……」
「もう終わります。終わらせたら部屋まで送りますから、座って待っていてください」
「わかりました。お邪魔します」
 竹簡を積んだ卓ではない、円卓へ花を促す。
「……疲れが和らぐって料理人の方に聞いたお茶を淹れてきたんです」
「ありがとうございます」
 花が差し出した茶杯を公瑾は受け取った。
 用意して急いで持ってきてくれたのだろう。彼女の優しさに心が温かくなる。
 花が傍にいてくれて、可愛い笑みを見せてくれるなら、どんな疲れであろうと和らぐ。
 公瑾はまだ熱い茶を一口すすった。
「……よい香りと味ですね」
 その言葉に花の顔に笑みが広がる。
「よかった。 あ、でも料理は美味しくないかも……」
「なぜです?」
「火加減とか難しくてちょっと焦げちゃったりしたのがあるし、公瑾さんの好みがわからなくて、たいしたもの作れなかったんです。だから食べてくださいって薦めにくいというか、やっぱり食べないで欲しいというか」
 差し入れを持ってきておいて、薦めにくいとか食べないでと言う花に公瑾は微苦笑した。
「花は私にどうして欲しいのです」
「……食べて欲しいですけど、まずいって言われる覚悟ができていないので」
「味見をしていないのですか?」
「いえ、しました」
「でしたら、あなたの心配は杞憂ですよ」
 全く普通の料理にしか見えないし、味見をしているのであれば何も問題ないはずだ。ちょっと焦げたと言っていたが、彼女が言うほど料理は焦げていない。
 必要な栄養さえ取れればいい、と公瑾は思っていたが、花が自分の為に作ってきてくれたのが嬉しく、頬が緩んだ。



「……明日、ですか?」
 部屋へ送ってもらう道すがら、公瑾から切り出された話に花は瞳を瞬いた。
 昼間逢った時、「明後日は一緒に過ごしましょう」と誘われていた。公瑾が一日休みで彼と二人きりでゆっくりできるのは久しぶりだったし嬉しかったから、花は二つ返事で頷いていた。だが夜になって、明日だと言われて花は驚いた。
「ええ。少々予定が変わりまして」
 変えたのだが、それを知っている者たちはここにいない。
「そうなんですか。でも、嬉しいです。……早く明後日にならないかなって思ってたから。公瑾さんが気を遣ってくれて、私のためにお仕事が忙しくなってしまってるのわかっててすごく不謹慎なんですけど」
「私がそうしたくてしているのですからいいのですよ。 それより――花、最近なにか変わったことはありませんか」
 花は考えるように視線を上へ向けた。
「……あ、兵士さんとか文官さんに話しかけられる機会が増えました。よそよそしかった感じがなくなって、なんていうか…優しい感じがします」
 公瑾の笑みが引きつるが、花は気がついていない。
「このあいだ道に迷ってたらわざわざ案内してくれて」
「……まだ迷うことがあるのですか」
「えっと、たまに、です。それから……」
「まだあるのですか?」
 公瑾のこめかみに血管が浮かんでいるが、思い出すのに夢中になっている花は、まだ気がついていない。どころか、嬉しそうな笑みさえ浮かべている。
「あ、そうだ。着物が似合ってるって言われました。公瑾さんがくれたのを似合うって言ってもらえて、すごく嬉しかったです」
「――花」
「はい」
 なんですか?と花は首を傾げた。
「あなたは隙だらけすぎます」
「そうでしょうか」
 きょとんとした顔は全くもってわかっていないのが明らかだ。
 花には警戒心が足りない。つまり、隙だらけと置き換えてもいい。
 公瑾は諦めたように溜息をついた。
「……私が守るしかないですね」
 既成事実を作るにしても、花が初すぎて手が出しづらい。
 だがしかし、このままにしてはおけない。
 何か策を、と考えた時、前方でちらりと動く影があった。人影があったのは、花の部屋の近く。
 利用しない手はない、と公瑾は不敵な笑みを浮かべた。
 部屋の前まで花を送り届けた公瑾は、扉を閉めようとした花の腕を掴み、彼女の部屋へ入り込んだ。

 一夜明け、公瑾の狙い通りに事が運んだのは言うまでもない。




―終―

初出・サイト8周年企画
嫉妬まじりの恋のお題 04. 隙だらけの君
恋したくなるお題様(http://members2.jcom.home.ne.jp/seiku-hinata/)

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