選んだ世界 静寂な闇が支配する刻限――夜の帳が下りた京城の自室近くの回廊の階に座り込み、花は夜空を見上げていた。 目が覚めて眠れなくなり部屋を出たのは、少し前のこと。 気分転換に外の空気を吸いたくなった。 上弦の月と無数の星が輝く美しい夜空。いつもなら綺麗で見惚れてしまうそれなのに、今はただ眺めているだけ。 元の世界に戻るか。それともこの世界に残るか。 二つあった選択肢。花が選んだのは、この世界。学校の図書室で見つけた本に連れてこられた、見知らぬ世界だ。 ここに来た当初はずっと帰りたくて、帰るために本の白紙を埋めていた。 けれど好きな人ができて、花は選ばなくてはならなかった。元の世界に帰るか、この世界に残るか。どちらかを選ばなくてはならなかった。 初めに選んだのは、元の世界に帰ることだった。元の世界には大切な人たちがいる。ずっと帰らない自分を、きっと心配している。それに、好きになった人には婚約者がいたから、この世界に残っても仕方ないと思った。 けれど婚約者というのは花の誤解だった。だから、この世界に残ると決めた。傍にいて欲しいと望んでくれた人の傍に、花はいたかった。好きな人と一緒に生きていきたいと思った。 公瑾から離れたくなくて残ると決めた世界で暮らすようになってから数ヶ月が経つ。これまでも帰らない故郷が懐かしくて淋しくなったことは何度かある。だが、帰りたいと思ったことはない。 友達や家族を思い出し、今頃どうしているだろうと思いを馳せることはあっても、公瑾の存在が花をこの世界に引き止めている。 公瑾がいる場所が花の居場所。 この世界でそこ以外に居場所はない。 公瑾がいるから、ここにいる。 花には公瑾が全てだ。 先程、母の夢を見た。 母に公瑾のことを話す夢だった。 夢に見るのは己の願望なのだ、と聞いたことがある。 ならば、覚えのないことや思っていないことを夢に見ることは、ないのではないだろうか。 真昼の青空を見上げ、この世界で生きていくと元の世界にいる友達や家族へ伝わるように願った。 けれど、願いは願いで、直接伝えられたわけではない。 それがずっと心の片隅にあって、今宵夢となって現れたのかもしれない。 花自身、直接伝えられないもどかしさはあったが、伝わったらいいと願うことで納得していた。だが、夢に見たということは、心のどこかでそういう思いがあったのだろう。 「……夢が本当だったらいいな…」 夢が脳裏に甦る。 ――好きな人ができたの。ずっと傍にいたい人なの ――なら、手放したら駄目よ。しっかり捕まえていなさい そう言って、母は微笑んだ。 この世界にいることを許されたようで、嬉しかった。 だから、本当だったらいい、と願う。――願うしかできない。 花の鳶色の瞳は、ずっと夜空に向けられていた。だから、回廊に僅かに響く足音、こちらに近づいてくる人影に少しも気がつかなかった。 階に座る花のすぐ傍で足音が止まる。 「……このような刻限に出歩くのは、感心しませんね」 「――っ!?」 不意に聞こえた声に花は飛び上がるほど驚いた。 振り向いた花の瞳に、回廊の天井から吊るされた灯燈の明かりに照らされた、夜闇でも際立つ美貌の恋人が映る。 「夜着に上着も羽織らずにいるとは、何を考えているのです」 「公瑾さん……」 花は立ち上がった。階を一段上がり、公瑾がいる回廊へ上がる。 「どうしてここにいるんですか?」 「それを訊きたいのは私のほうだ」 怒気の混じる声色に花は細い肩をびくりと揺らした。 公瑾が本気で怒っていることが気配から伝わってくる。 「……説明していただけますよね」 否定を許さない声色だった。 不機嫌を隠さない公瑾に花はこくりと小さく息を呑み、ここにいる理由を一から話した。 花の話が終わると、公瑾は僅かに双眸を伏せた。 「……そういうことでしたら仕方ないですけれど、許すのは今回だけです。今後一切、そのような格好で出歩かないでください。 いいですね」 「はい。風邪引いたら迷惑かけてしまいますよね」 眉を曇らせる花に公瑾は思い切り深い溜息をついた。 「そういう問題ではありません」 「えっ?違うんですか?」 花はきょとんとした顔で首を傾げる。 その表情は本気でわかっていないことが明白だ。 今までの話の流れで、なぜ風邪を引く云々になるのだろう。 「このような刻限にそのような格好でいたら、襲ってくれと言っているも同じです」 無防備なのにも程がある花に腹が立つ。 花の部屋近くを夜間警備にあたっている兵士を、万が一を考えて直属の部下にし配置していなかったら、どうなっていたか。 誰にでも分け隔てなく接する花を好ましいと思っている者は山程いるというのに。花に懸想している者だっているのだ。無論、そのような男は放置しておかない。 自分以外の男が花に触れるなど冗談ではない。 彼女髪一本でさえ、そんなことは許さない。 「……あなたに触れていいのは私だけです」 苛々が限界を突破してしまった公瑾は、花の腕を掴んで華奢な身体を引き寄せた。 公瑾は恋人の寝間着の胸元を開き、露わになった白い肌へ口付けて強く吸った。白い肌に咲いた赤い花は、公瑾の所有の印。 「…っ、公瑾さん、何…っ…」 「……襲われないとおわかりいただけないようですから」 いつもとは逆に見下ろす形で公瑾と目が合う。彼の瞳に見たことのない光が浮かんでいるが、恋愛経験がない花には、それが情欲であることはわからない。けれど、ぞくりと背筋が粟立った。 「わ、わかりました、から……」 瞳を潤ませる花に公瑾は刹那瞳を瞠り、何事もなかったように恋人の肌蹴させた寝間着の胸元をなおした。 腕を放すと、花は公瑾から少し距離を取った。 少しは理解してもらえたのかと思う一方、警戒されるのは不本意だ。 公瑾は自分の行動を棚に上げて思った。 「……公瑾さん」 「はい?」 「来てくれてありがとうございます。公瑾さんに話したらすっきりしました」 警戒して距離を取ったかと思った花は緩く首を傾けて笑った。 「……私はすっきりしませんけどね」 公瑾の溜息交じりの声は小さく、花の耳には届かなかった。 「…?今何か言いました?」 「いいえ。 花、落ち着いたのでしたら、部屋に戻りなさい。夜風は身体に悪い」 「はい。おやすみなさい、公瑾さん」 「おやすみなさい、花」 花が部屋に入るのを見届けて、公瑾は夜空を見上げた。 公瑾の宿星に寄り添うように星が輝いている。 以前、宿星の傍らに星はなかった。 新たな星が出現したのは花が近くにいるようになってからだが、出現した時は今見える位置より東の空であったし、放つ光もずっと弱かった。 それが今のように寄り添うように、そして明るく輝き始めたのは、花がこの世界に残ると言ってくれた日の夜。 新しい星は花の宿星だ。 「…………花―――――――」 夜空を見上げて紡がれた言葉は、漆黒の闇の中へ溶けて消えた。 ―終― 戻る |