好き過ぎて




 机の上には書簡がどっさりと置かれている。
 その書簡の山から一巻取り、書かれた文字へ目を走らせる。
 元いた世界で使っていた文字とは違い、こちらの世界で使われているのは漢字のみ。軍師として孟徳に仕官することになり、文若の下につくことになったが、文字を読むことができなくて呆れられた事は記憶に新しい。
 この世界に残ると決めてからは、以前に増して、時間がある時は教えを請うて勉強をした。その甲斐あって今では読めなくて困ることは少なくなっている。けれど書く方は、筆というあまり使ったことのない筆記具を使わなければならないので、なかなか上達しない。なんとか読める、その程度の腕前だ。
 書簡の内容を確認した花は、それを左手側に積んだ書簡の束の一番上に置いた。
 この部屋――文若の執務室へ持ち込まれた書簡を選り分ける。それが彼女の仕事だ。
 午前からずっと続けているにも関わらず、午後を過ぎた今も一向に書簡が減らないのだ。終わったと思うと新しい書簡が届いたり、終わらない前にふたつめの書簡の山が出来たり、とその繰り返しだ。
「――花」
「あっ、すみません!」
 花はいつのまにか手を止めていたことに、名を呼ばれて気がついた。
 慌てて書簡へ視線を落とす花の耳に、落ち着いた声が届く。
「少し休憩しよう。…集中力が落ちているようだからな」
「うっ、すみません…」
 文若に比べたら忙しくないはずなのにと思うと申し訳ない。
 だが、そんな彼女の心情を察している文若は、僅かに頬を緩めて言った。
「謝ることはない。お前はよくやっている。が、これでは仕方あるまい」
 丞相府を移転するという話が出てから数日、仕事は目に見えて増えている。移転するのはまだ先だが、それに備えておかねばならぬ事や確実にしておかねばならぬ事もあり、目の廻る忙しさだ。
 文若がいつものように茶の用意をするために部屋を出るのを見送った花は、左右の指を組み、腕を頭上に伸ばした。ずっと同じ姿勢でいたから、筋肉が凝り固まっている。
 首も凝ったなぁと花が首を動かしゴキッと音がしたのと部屋の扉が開いたのは、ほぼ同時だった。
「すごい音だね、花ちゃん」
「もっ、孟徳さんっ!?」
 花は突然の来訪者に驚いて、胡桃色の瞳を大きく瞠る。
 もしかしなくても確実に聞かれたことに、花はこれ以上はないほど赤面した。
 は、恥ずかしい…!よりによって孟徳さんに聞かれるなんて…!
「揉んであげるよ」
 孟徳はにっこり笑って部屋の中に入り、花の後ろに行くと華奢な肩に大きな手を置いた。
「ああああのっ、孟徳さんっ!?」
「大丈夫。俺、上手いから」
「そ、そういう問題で――っ」
 不意に首筋を撫でられ、花は息を呑んだ。
「あ、ごめんね」
 花は孟徳の顔が見えないが、彼は笑っていた。とても楽しそうに。その顔からは、わざと彼女の首に触れた事が察せられる。だが花には見えないからわからないし、孟徳にとって都合の良いことに文若も元譲もいない。
「だ、大丈夫です」
 指は首からすぐに離れたので、花はほっと息をついた。
 びっくりして、心臓がどきどきしている。
 孟徳さんは肩を揉んでくれようとして手が滑ったんだよね。うん、それだけだよ。
 そう自分に言い聞かせなければ、どきどきは収まりそうになかった。
 ちらりと花の横顔を覗き見た孟徳は、動揺している彼女が可愛くて、その初心さに頬が緩んだ。
 無防備で可愛くて、とても愛しくて。
 ――君が好き過ぎて、触れたくなる。
 けれど傷つけたくはないから、さりげなく触れるだけで精一杯。
「……?」
 肩に手を置いたままで言葉を発しない孟徳を不思議に思い、花は後ろを振り向いた。
「…っ」
 瞳に映った孟徳の笑みに心臓が跳ねる。
 彼の笑顔は今まで見たことのない種類の笑みで、それを不意打ちで見たものだから言葉がでない。優しい眼差しに捕らわれて視線が逸らせない。
「そんなに見つめられると――」
 不意に部屋の扉が開き、孟徳の言葉は遮られた。
「丞相」
「いいところなんだから、邪魔するなよ、文若」
 部下の不機嫌などどこ吹く風で受け流し、孟徳は椅子に座っている花に「ね、花ちゃん」と同意を求める。
「え、あの、その…」
「丞相」
 全くこの上司はとでも言いたげに、文若の眉間に皺が刻まれる。
「ぶ、文若さん、お茶ありがとうございます」
 花はこの雰囲気をなんとかしなくちゃと思って言ったのだが、彼女の努力は失敗に終わった。
「君をこき使ってる文若が茶を淹れるぐらい当然なんだから、花ちゃんが気を遣わなくてもいいんだよ」
 孟徳のあまりの言い様に、文若のこめかみに青筋が浮かんだのを花は見た。
「そう仰るのなら言わせていただきますが、忙しくなったのは丞相が丞相府を移すと決められたからです。ですから、元はと言えば丞相の所為であって、私の所為ではありません」
「花ちゃんをこき使えとは言ってない」
「使ってなどいません。だいたい――」
 うわ、どうしよう、すごい険悪な雰囲気になってきた。
 一息いれるどころじゃない…。
 けど、なんとかしなくちゃ。
 花は意を決して口を開いた。
「あ、あのっ、お茶が冷める前にいただきませんか」
 響いた声に孟徳は花を見、ついで文若の手元へ視線を落とす。
「冷めてるんじゃないか?」
 盆に乗った茶器から湯気が立っていない。
「……誰の所為だと思ってるんですか」
 わなわなと文若が怒りに震えるのも無理はない。
「文若さん、私が淹れなおしてきます」
 そっと盆に触れながら言った花の言葉は、文若の心を微かだか浮上させた。
「いや、大丈夫だ」
「でも…」
「気にするな」
「そうそう。気にしなくていいんだよ」
「あなたは少し気にしてください」
 ぴしゃりと言い置いて、文若は部屋を出て行く。
「……孟徳さん、喧嘩はダメです」
「喧嘩じゃないけどな」
「ダ・メ・で・す。 だいたい孟徳さんはお仕事中の筈じゃないですか」
「うん、そうだよ。けど、君に逢いたかったんだ」
 にっこり笑って言われて嬉しくない乙女はいない。
「そっ…れは、……」
「花ちゃんは俺に逢いたくなかった?」
「―――っ」
 ずるい。
 そんな風に言われたら降参するしか、ない――。
「…ずるい、です…」
 真っ赤になった顔を隠すように俯く花の耳元へ、孟徳は唇を寄せる。
「ごめん。 君が好き過ぎて逢いたくて仕方なくなるんだ」
 甘い言葉と耳に触れる吐息に、花の顔は益々赤く染まっていく。
 それがたまらなく可愛くて、孟徳は花の前髪へ口付けた。




―終―



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