君の寝顔 「花ちゃん、ごめんね。待たせ――」 自室の扉を開けた孟徳の双眸に映ったのは、卓に伏せ寝息を立てている花の姿。 くうくうと気持ちよさそうな寝顔に孟徳は頬を緩めた。彼女の寝顔があまりに可愛らしくて。 彼我を縮めた孟徳は、自分の腕を枕にしている花の下に竹簡が広げられたままなのを見た。竹簡に書き付けられた文字は、孟徳自身の手によるもの。孫氏の書に注訳をつけ、孟徳が編集したものだ。 彼女はこれを読んでいるうちに眠ってしまったのか。 この世界に残ることを決めた花は、この世界のことをもっと知りたいと学んでいる最中だ。最近は夜遅くまで部屋の明かりがついていることもある。根を詰めすぎるのはよくないと思うが、「孟徳さんの隣に並んで恥ずかしくないように、最低限の知識や常識を身につけたいんです」と言って頑張っている彼女に、必死にならなくてもいいよなどと、軽々しい言葉をかけられるはずがない。それを言ったら、彼女の行動を、意思を反対していることになる。孟徳にできるのは、見守りつつ、さりげなさを装って彼女に休息を取らせることくらいだ。ただ、孟徳自身も忙しいので、四六時中気にかけられないのが歯痒い。 孟徳は花の向かいの椅子を引き、それに腰を降ろした。 卓に頬杖をつき、寝息を立てる花を見つめる。 今朝花を見かけた時、一緒にお茶が飲みたいと言ったら、彼女は笑顔で了承してくれた。 「ありがとう。じゃ、俺の部屋で待っててくれるかな」 「勝手に入ってしまっていいんですか?」 いささかためらう様に首を傾げる花に孟徳は満面の笑みで頷く。花だけは特別だ。 「君に待っていて欲しいんだ」 「わかりました。待っています。 お仕事がんばってくださいね」 「うん、ありがとう」 花の労いに疲れが吹っ飛んだ孟徳はそれから猛然と仕事を片付けた。とは言え、まだまだ仕事は山積みなのだが、昼が過ぎても終わらないことは確実で、ならば待っていてくれる花を優先するほうが大事だ、と仕事を放棄した。 「花ちゃんとお茶してくる」 席から立ち上がると、すかさず部下に呼び止められる。 「丞相!」 「今朝からの約束だ」 しれっとした顔で言った孟徳に文若は眉間の皺を増やしたが、根が真面目なだけに、約束ならば仕方ないと諦めたのか、文若は額に手をあて盛大な溜息をついたが、それ以上の小言はなかった。 かくして孟徳は部下の妨害を阻止し、花が待ってくれている私室へ戻ってきた。 「……気持ちよさそうに寝てるなあ」 呟いて、くすっと笑う。あどけない寝顔も愛しくてたまらない。 孟徳に花を起こすつもりは更々なかった。起こすより、こうして彼女の寝顔を見ているほうが楽しいからだ。自分だけの特権というのは、存外心地がよい。 「……ん……」 可憐な唇から零れた声に目を覚ますかと思ったが、鳶色の瞳は閉じられたまま開く気配がない。 夜遅くまで起きているのに朝起きるのが遅いわけではないから、単に寝不足なだけだろう。 「……………も…とくさ……」 花の唇から零れた音に孟徳は一瞬瞳を瞠り、幸せそうに微笑んだ。 「ねえ、花ちゃん。俺の夢を見てくれてるの?」 君と一緒にお茶を飲むのを楽しみにしていたけど、こうして君の寝顔を見ているのもいいかもしれない。 もう少し寝顔を見ていたいと思うけど、やっぱり君の笑顔が見たい。君の声が聴きたい。 気持ちよさそうに寝ている花を起こすのは可哀相だが、彼女との時間を満喫したくなって、孟徳は愛しい少女を起こすために椅子から立ち上がった。 ―終― 初出・WEB拍手 戻る |