逢いたくて




 まだ室内が薄暗い早朝。
 いつもの朝より数刻早く、花は目を覚ました。
 寝台の上に起き上がると、次第に頭が動き出す。
 そして一番に思い出したのは、昨夜の事だった。
 その場景が頭に浮かび、耳に残っている子龍の声に花の頬が赤く色づく。
 数日前の戦いの際、子龍は長板橋で怪我を負った。
 そして昨夜、ささやかな宴が開かれる事を子龍が伝えに来てくれた際、彼に怪我が治り具合を聞いた。
 彼の口から大丈夫だと聞いた花はほっとし、同時に玄徳軍の拠点問題が解決し、何も問題がない今、この世界にいる意味がなくなったからと、元の世界へ帰る事を子龍に打ち明けようとした。
 けれど――。

「結婚してください。 私の妻になってください」

 真摯な瞳と情熱のこもった声で求婚されて、花はこの世界で、子龍の隣で生きていくと決めた。
 好きと告げてすぐに婚姻を結ぶ、などと好きな人が欲しいな程度に思っていた花は考えた事がなかった。
 まずは恋人として付き合って結婚というのが普通だと思っていた、というのもある。
 でも、子龍とならいいと思えた。
 離れたくなかった。
 ずっと子龍と一緒に居たいと思った。
 月下の下での誓いは、心を幸せで満たしてくれた。
 ただ、少しも寂しさがないと言えば嘘になる。
 この世界で生きていくと決めた昨夜、宴から部屋へ戻ると、図書館で見つけた、元いた世界へ戻るために必要だった本が消えていた。
 ここに残ると決めたのは自分だし、後悔はしていない。
 けれど、本が消え、元いた世界との繋がりがなくなったことが寂しい。
 花は寂しさを振り払うように左右に緩く頭を振った。
「………子龍くん」
 なんだか急に逢いたくなって、顔を見たくなって、名が口から零れた。
 その時ふと、部屋の外――廊から極微かな足音が聞こえた。寝ていたら絶対に気がつかなかっただろう、音がしないよう細心の注意を払っているようなそれだったが、花は起きていたし、静寂の中では足音だとわかった。
 その足音が花の部屋の前で止まる。
 けれどそれきりで、呼びかけるような声はない。
 迷ったのは刹那。
 花はささっと身繕いをし、寝台から降りる。
 急に扉を開けたら驚かれるかもしれないと思い、花は扉越しに声をかける事にした。
「…子龍くん?」
 もしかしてという思いと、そうだったら嬉しいという気持ちと半々で名を呼ぶと、息を呑む気配が伝わってきた。
「……はい。起こしてしまったようで申し訳――」
「ううん、起きていたの」
 子龍の言葉を遮って言い、花は扉を開いた。
「花殿、何を…」
 驚いて瞳を瞠る子龍に、花はきょとんとした顔で首を傾けた。
「え、だって話しづらいじゃない」
「それはそうですが……」
 まさか扉が開けられて顔を見られるとは思っていなかったので、子龍は言い淀む。
 しかしながら、そんな彼の思いを花は知らないので、思ったままの気持ちを柔らかな唇で紡いだ。
「それにね……子龍くんの顔が見たいなって思ってたんだ」
 家族や友達の事を思い出して泣きたくなって子龍に逢いたくなったこと、そこへ子龍が訪れたことを花は話した。
「だから、逢えて嬉しい」
 そう言って、ふわりとはにかんだ笑みを浮かべる花を子龍はぎゅっと抱きしめる。
 そんな風に可愛らしいことを愛する人に言われて、子龍とて我慢などできるはずがない。恋愛経験に乏しい――というより、子龍も花もお互いに初恋だが、ともかく、子龍は花を抱きしめたい衝動にかられた。
 初めて抱きしめた、愛しい人の華奢で柔らかな身体を肌で感じ、子龍は知らずに瞳を細める。
「し、子龍くん?」
 花は不意打ちの抱擁に頬を赤く染めてうろたえたが、子龍は腕を解かずに彼女の耳元へ唇を寄せる。
「…逢いたかったのは私です」
「え…?」
 紡がれた言葉に花は瞳を驚きに瞠った。
 子龍くんも?同じように思って…?
「このような刻限に訪れても、まだ休んでいらっしゃるだろうと思ったのですが……」
 あなたに逢いたくて。
 吐息のような声で囁かれ、花の顔はますます赤くなった。
 心臓がどきどきし始め、その音が子龍に聴こえてしまうのではないかと意識すると、ますます鼓動が早くなり、どうしたらいいかわからなくなる。
「…………あ、あのっ…」
 離して欲しい、だと嫌がってるように聴こえちゃうかな。
 うう、なんて言ったらいいんだろう…。
 花が困って僅かに俯くと、ふっと温もりが離れた。
 あれ、と思い顔を上げた花の瞳に映ったのは、少し動揺したような顔をした子龍だった。
「す、すみません…」
 子龍は目元を淡く染め照れた顔で花から視線を逸らす。
「あ、謝らなくていいよ。嬉しかっ…っ」
 花は言いかけて、かああっと顔を真っ赤に染めた。
 やだ、何言ってるんだろ、私…!
「は、花殿、訓練があるのでそろそろ失礼いたします」
「し、子龍くん! あの、訓練がんばって。それから、逢いにきてくれてありがとう」
「――っ」
 子龍は理性が外れる発言を笑顔でする花に感情をどうにか押さえ込み、「ありがとうございます。では、また後程」と言って、花の部屋を後にした。




―終―



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