なつかしき馨り 店の中へ足を踏み入れると、そこはやさしい香りに包まれていた。 壁際の棚には菊花、梅香、黒方など様々な香りの練り香をはじめ、白檀、伽羅などの香木や線香が陳列されている。 そして店内中央にはショーケースがおかれ、中には香炉が並んでいた。 店へ入って来たのは、髪を肩で切りそろえた可愛らしい顔立ちの少女。 制服を着ているところをみると、どうやら高校生らしい。 その少女の足はショーケースの前で止まった。 「香炉もきれいだけど…ちょっと無理だなぁ」 口の中で呟いて、あかねは重い溜息をついた。 香炉の値段は安い物で五千円はする代物だった。高い物になると何万円もしてしまう。 いくらなんでもこんなに高価なものを買う訳にはゆかない。 予算が足りないのは勿論だが、彼が心配…いや、心配というより落ち込ませてしまいそうな気がした。 後ろ髪を引かれる思いだったが香炉は諦めて、あかねはお香がある棚のほうへ移動した。 その中のひとつ、若草色をした香を手に取り、馨りを聞く。 (…いまいち、かな) 余り好みの馨りではなかったので、手に持っている香を元の場所へ戻し、別の香を手に取り馨りを聞いた。 くすんだ青色の香は、馨りはよかった。けれど泰明のイメージとは結びつかないので、それもまた棚に戻した。 あかねは香を手に取っては聞いて、という行動を何度か繰り返した。 「…やっぱりこの香りが一番かな、うん」 聞き比べたら、やはり慣れ親しんだ香がいいと思ってしまった。 たまには違う香りがいいかなと思ったのだが、彼の好きな馨りが一番だろう。 そう決めて、あかねは箱に入った香を手に取った。 翌日、あかねは昨日買った物を持って、泰明の家へ向かった。 チャイムを鳴らすと少しして扉が開き、泰明が顔を出した。 「こんにちは、泰明さん」 微笑むあかねにつられて、泰明の顔にも笑みが浮かぶ。 「ああ、よく来たな」 泰明が柔らかな声であかねを迎え入れる。 あかねはお邪魔します、と家へ上がった。 泰明の家に遊びに来た時はいつものそうしているのだが、あかねが居間のソファーに腰掛けていると、泰明がほうじ茶を淹れてきてくれた。 以前、彼女なんだから私が、と言ったことがあった。 だが泰明の返答は「問題ない」の一言。その言葉の裏には「あかねは不器用だからな」という意味が含まれているのだが、それをあかねが知る由もない。 「熱いから気をつけろ」 「ありがとうございます」 差し出された萩焼の湯のみをあかねが受け取る。 それから泰明はあかねの隣へ腰掛けた。 ほうじ茶を冷ますようにふうと吹いて、あかねはそれをすすった。 淹れたてのほうじ茶は熱く、少し時間をおいて飲むほうがよさそうだ。 それに、泰明に渡したいものがある。 あかねは湯のみをテーブルに置いて、傍らに置いたバックを探った。 バックの中から小さな包みを取り出し、それを泰明に差し出す。 心を込めた言葉とともに。 「お誕生日おめでとう、泰明さん」 「あかね…ありがとう」 泰明は僅かに瞳を瞠ったあと、満面の笑みを顔に浮かべた。 「ね、開けてみてください」 プレゼントを受け取るとあかねが嬉しそうに言うので、泰明はひとつ頷き、包みを開けはじめた。 麻の細い紐を解き深緑色の和紙を開いていく。 すると中から『菊花』と墨で書かれた木の小箱がでてきた。 「これは…!」 「ふふっ。驚きました?」 「ああ。…なつかしい香りがする」 瞳を細める泰明に、これを選んでよかったとあかねは微笑んだ。 「よかった。喜んでもらえて」 「大切にする」 「えっ?できたら使って欲しいんですけど…」 「それもそうだな。では、使うことにする」 「はい。そうしてください」 それから毎日、泰明はあかねから貰った『菊花香』を聞いているらしい。 【終】 お誕生日おめでとう。泰明さん♪ 泰明さんの出番が少ないけど、お誕生日創作です。 戻る |