Sweet Night




 クリスマスが近付いてきた、ある日のこと。
 学校の門を出たところで詩紋は呼び止められた。
「詩紋くんっ!お願いがあるの」
「うわっ、あかねちゃん?びっくりしたあ」
 校門を出たと同時に急に目の前に現れた少女に驚き、詩紋は大きな声を上げた。
 待ち伏せをしていたのがあかねだとわかると、詩紋はホッとしたように息をつく。
 ちょうど下校時間だったので、周辺にいた生徒の数人が詩紋達のやりとりを訝し気に見ている。
 これ以上目立って注目を浴びるのは避けたい。
「あかねちゃん、帰ろう」
 詩紋はあかねを促して、学校をあとにした。
「ね、お願いって何?」
 少し背が伸び、あかねより若干背が高くなった詩紋が訊く。
「あのね、ブッシュ・ド・ノエルって作れる?」
「作れるけど…それがどうかしたの?」
「うん。作り方教えてくれる?」
「それはいいけど…お願いってそれ?」
 詩紋が首を傾げて訊くと、あかねはしっかり頷いた。
「でも、別に校門前で待ち伏せなくても…」
 ほんの少し困ったように笑う詩紋をあかねは真剣な瞳で見つめた。
「だって、クリスマスまであと一週間しかないのよ?」
 それならもっと早く言ってくれればよかったのに。
 詩紋はそう思ったが、言わないでおくことにした。
 おそらく突然思いつき、期限が間近なことに慌てて、待ち伏せという手段を取ったのではないかと思ったので。
 それに、あかねのお願いを断れる筈がない。家族と同じように大切な人だから。
 彼女の心が自分のものでなくても、いつも笑顔でいて欲しい。
「わかったよ。それで、いつからやるの?」
「もちろん、今日からよ」
「やっぱり毎日作るの?」
 詩紋が不安げに訊いた。
 あかねと一緒にお菓子を作れるのは嬉しいし楽しいと思う。
 だが、それを見た泰明に何をされるか心配だった。何かをされる相手が自分かあかねかはわからないけれど。
「う〜ん。とりあえず、何度か作って覚えたいな。そしたらあとは一人で何とかなると思うの」
「そうだね。それがいいかもしれない」
 クッキーは作ったことがある、と聞いたことがある。
 けれど、天真から伝え聞いた話だと、料理は壊滅的にダメ。つまりあかねは不器用らしい。
 泰明を喜ばせたいのだろうという気持ちはわかる。
 けれど、なぜよりにもよってブッシュ・ド・ノエルを作りたいと言うのか。
 やる気満々のあかねに、詩紋はガトーショコラの方がいいんじゃないかな、とは言えなかった。
(一日でも早く覚えてもらわないと僕…)
 詩紋はこれから数日のコトを考えると気が重く、胸の内で盛大な溜息をついた。
 こうしてあかねはケーキが作れるまで詩紋に教えてもらうことになった。
 期間はあと一週間あるが、詩紋の希望としては2〜3日中に一人で作れるようになって欲しい。
 ケーキを作るのが初めてという初心者への要望としては壁が高いというのはわかっている。けれど、早く覚えてもらわなければ困るのだ。
「詩紋君、どうしたの?」
「なんでもないよ」
 詩紋は笑顔で誤魔化して、あかねを連れてケーキの材料を買いに向かった。



 いつもと同じ時刻にマンションへ帰りついた泰明は、部屋の中に何かの気配があることを玄関の前で察した。
「この気は…あかねか…」
 そう呟いて、ドアを開ける。
 泰明が家の中へ一歩入ると、あかねが出迎えた。
「おかえりなさい。泰明さん」
「いま帰った」
 泰明が焦茶色の革靴を脱いで部屋に上がるのを待って、あかねは話しかける。
「ね、泰明さん。今日は何の日だか知ってます?」
「たしか…くりすます、だったな」
「ピンポーン。正解です。だからね、ケーキを作ってきたんです」
「おまえが?」
 泰明は切れ長の瞳を驚きに見開いて、あかねを見つめた。
 京からこの世界にやってきて、数ヶ月が経っている。
 あかねの手作りの料理や菓子を食べるのは初めてではないが、味としてはまあまあで、彼女自身も自信を持って「どうぞ」とは言わない。
 だから、得意げな表情で言うあかねを見るのは初めてだ。
「うん、詩紋君に教えてもらったりして。作るの大変だったけど…」
 舌を覗かせてあかねが照れたように笑う。
 あかねは泰明が喜ぶと思いケーキを作ってきたのだが、泰明の反応はあかねが予期せぬものだった。
「近頃、私と逢ってくれなかったのは、そのためか?」
 悲しみの色をまとった泰明の声が響く。
 彼の顔はまるで捨てられた子猫のようだ。
 あかねは泰明の表情を見て、どれだけ自分が泰明に寂しい気持ちにさせていたのかを悟った。ケーキを作って泰明に見せたらきっと驚いたり、喜んでくれる。そう思って毎日頑張っていたのだが、逢わないことで泰明が落ち込むとは思ってもみなかった。
「ごめんなさい。私……」
 泰明の悲しそうな顔を見たかったわけではない。
 喜んで欲しかった。ただそれだけだったのに裏目に出たことが悲しくて、あかねは俯いた。
 小さな嗚咽があかねの唇から零れる。
「泣かないでくれ、あかね。私が悪かった」
 泰明がバツの悪そうに言った。別に泰明が悪いのではないのだが、思わず謝ってしまう。
 あかねの涙には勝てない。心底そう思う泰明だった。
 泰明はあかねの肩を抱き細い身体を支えるようにして、リビングへ足を運んだ。
 ガラス製のローテーブルの上に、白い箱がのっている。
「あかね、けーきはこれか?」
 泰明が箱を指して訊くと、あかねは目もとを手の甲で軽く擦って涙を拭いながら頷いた。
「うん…食べてくれる?」
「無論だ」
 泰明の即答に、あかねは少しだけ赤い目で嬉しそうに笑った。
 そしてテーブルの傍らに膝をつき、卓上にある白い箱の蓋をとった。
 中から薪の形をしたケーキが顔をだす。表面にはココア色の生クリームが塗られており、葉っぱやきのこの飾りもついている。ずいぶんと本格的なものを作ってきたらしい。
 泰明がケーキに目を奪われていると、いつの間にやらあかねがナイフと皿、そしてフォークを手に持ってリビングへ戻ってきた。
 あかねはナイフでケーキを切り、それを2枚の皿に盛り付けた。
 ひとつを泰明に差し出し、もうひとつを自分で持つ。
 泰明は渡された皿を受け取ると、フォークでケーキを一口分掬い口へ入れた。
 あかねはその様子をドキドキしながら見守った。詩紋には上出来だよ、と言われたけれど、やはり泰明の反応が気になる。
「……どうですか?」
「…ああ、上手いぞ」
「本当?嬉しい」
 泰明はまた一口ケーキを口に運んだ。
 それを見て安心したあかねは、自分もケーキを食べはじめた。
「あかね、くりーむがついている」
「え?どこ?」
「ここだ」
 泰明はあかねの口の端についている生クリームをぺろりと舌で嘗めとった。
 あかねの白い頬が瞬時に赤く染まる。
「泰明さんっ!」
「何だ?」
「何だ?じゃないです。いきなりこんなことしないでください」
「なぜだ?嫌だったのか?」
 不安げな表情で問う泰明に、あかねは複雑な顔をした。
「そうじゃなくて…もうっ…いいです」
 恥ずかしくて、泰明から僅かに視線を逸らす。
 あかねの行動の意味などわからない泰明は、不安そうな瞳であかねを見つめた。
「私のことが嫌いになったか?」
(そんな訳ないじゃない…っもう)
 結局あかねは泰明には勝てない。好きな人に悲しい顔をさせて平気でいることなんて、できはしないのだ。だからあかねは降参した。
「好きですよ。誰よりも」
「あかね」
 泰明は先程までの落ち込みぶりが嘘のように嬉しそうである。
 あまりに切り替わりの早い泰明に、あかねは心の中で呟く。
(わざとじゃないよね、泰明さん)
 そんなあかねの思いを知らない泰明は、またしてもあかねを怒らせるようなことを口にした。
「あかね、口付けしてよいか?」
「は、い?」
 言うが早いか返事を待たずに、というか、あっけにとられたあかねの言葉を了承だと受け取ったのかもしれない。
 泰明はあかねの頬を両手で包み込み、柔らかな唇を塞いだ。
 しばしの沈黙が流れる。
 あかねは泰明の唇が離れると、真っ赤な顔で抗議の声を上げた。
「もうっ!泰明さんてば!」
「何を怒るのだ?おまえがいきなりするなと言うから言ってからしたではないか」
「……………」
 そうだ。
 泰明さんてこういう人だった。
 あかねは胸の内でがっくりと肩を落とした。

 そうして、あかねの悶々とする悩みなど気にせずに、クリスマスの夜は過ぎていった。




【終】




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