春麗




 凍てついた氷のような世界の中で、時が止まってしまったようだ。
 頭の片隅で柔らかく優しい声が何度も木霊して、消えてゆく。まるで淡雪のごとく。
 感じる体温は温かいのに、心が急激に冷えてゆくのがわかる。


 どうして?

 なぜ?

 あなたなの


 ―――銀!


 叫んでしまえば楽になれるかもしれない。
 そう思うのに。
 声は音になることはなく、凍てついた空気に消えゆくだけ。
 望美は若草を溶かしたような色をした瞳から涙を流しながら、愛しい男を抱きしめていた。
「‥‥銀っ」
「‥‥‥はい‥‥ご命令を‥」
 ようやく音になった想いを込めた望美の魂からの叫びに、銀は答えない。
 感情のない表情で同じ言葉をただ繰り返すだけ。


「神子様。私はあなたを愛しております。忘れないでください」


 春の日射しのように穏やかで柔らかい微笑みでそう言ってくれた銀。
 紫苑色の瞳で包み込むように見つめられたのは、ほんの少し前。
 忘れてなどいない。忘れられる筈がない。
 初めて出逢った時、あの人に似ていると思って銀を見ていた。それは消すことのできない事実。
 けれど、銀と海に消えてしまったあの人がは全くの別人だとわかって。
 泰衡の命令で傍にいてくれていたことも、本当はどこかでわかっていたけど。
 それでもあなたに惹かれるのを止めることはできなかった。
 あの人を救えなかったから、銀を救いたいんじゃない。

 銀だから―――

「私はあなたを絶対に救ってみせる」

 過去へ遡って運命を変える。
 その力が私にはある。
 変えることのできる運命、変えることのできない運命がある。
 先生はそう言った。
 だけど、絶対に私は運命を変える。

 銀の心を壊させたりしない。そんなことさせない。


 逆鱗よ 私をあの時の時空へ連れていって―――!



 ふわり、と薄紅色の花弁が風に舞う。桜の花弁だ。
 夜に見る桜は美しいけれど儚気で、消えてしまいそうだと思った。
 でも今見ている桜は―――温かな日射しの中で見る桜は、美しく光り輝いている。
 時折、夢でも見ていたのではないか。
 そう思う時がある。
 でも、夢ではない。幻でもない。

「神子様、こちらにいらしたのですね。お探しいたしましたよ」
 耳に届いた柔らかな声に振り向くと、微笑を浮かべた銀が立っていた。
「心配かけてごめんなさい。いいお天気だったから、つい抜け出しちゃった」
 首を傾けて、望美はふふっと笑う。
 大群を率い攻めてきた鎌倉を退け、戦は幕を閉じ、平泉の地に安息が戻って数カ月が過ぎた。
 雪が溶けて春になり、今日は花見日和に絶好ないい天気。
 譲から明日には満開になりそうですよ、と聞かされた望美は、高館の近くにあるこの場所へやってきたのだった。
「私をお呼びくだされば、お連れ申し上げましたのに」
 微かに眉を顰めて悲し気な顔をする銀に、望美は慌てて声をかける。
「銀、朝から忙しそうにしてたから、声をかけたら迷惑かなって」
 銀の身を案じて言った筈の言葉は、はたして彼を更に追い込むにしかならなかった。
 紫苑を閉じ込めたような色をした優しい瞳が、悲しそうに揺れている。
 いけない、と思ったがそれはすでに遅かった。
「ご迷惑などど‥‥あなたをお守りすること以上に大切なお役目などございません。
 私は神子様をお守り申し上げたいのです」
「う、うん」
 まっすぐに見つめられて言われたら、肯定するしかできない。
 望美が頷いたのを見届けて、銀は瞳を僅かに細めて嬉しそうに微笑した。
「おわかりいただければよいのです。 神子様――」
「え?」
 名を呼ばれて声を上げるより早く、銀の長い指が望美の絹のような髪に触れる。
「髪に花がついておりました。
そのままでも美しかったのですが、あなたに触れるのは私だけでいたい」
 長く艶やかな髪から取られた桜の花が、風に運ばれて空へ舞い上がった。
「し、銀」
「はい、なんでしょう?」
 にっこりと優しく笑う銀に見つめられて、口にしようとした言葉が喉の奥へ消えた。
 望美は白い頬を赤珊瑚色に染め上げて。
「あ、ありがとう」
「ふふっ。頬を染めるあなたは本当に可愛いですね。
ずっと見つめていたいと申し上げたら、お怒りになるでしょうか」
 今度こそ銀の顔を見ていることができなくなって、望美は俯いた。
 恥ずかしくて顔から火が出そうとはこのことだ、と頭の片隅で納得する。
 八葉の弁慶やヒノエなら、わかっていてやっているのだとわかるのだが、銀はそうではない。
 全くの天然というか生まれ持った資質というか。とにかく無意識なのだ。
 多少は免疫がついてきたと思ったが、やはり慣れることはない。
「神子様、お怒りになられましたか?」
「怒ってなんかないよ。恥ずかしかったか…ら」
 彼を誤解させてはいけない、と慌てて顔を上げた望美は、若草色をした目を見張った。
 銀が紫苑色の瞳を優し気に細めて穏やかに微笑んでいたから。
「お恥ずかしくなる必要などございませんよ。私は神子様に真実をお伝えしているのですから」
 にっこりと微笑む銀に二の句が告げない望美の耳に、再び優しい声が届く。
「あなたを愛しております」
「銀‥‥あなたが好きよ」
  望美はふわっと微笑んで、甘えるように銀に身体を預けた。
 銀は細い身体を真綿で包むように、そっと優しく抱きしめた。




【終】



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