白銀に映ゆる




 白い花がひらひらと地上へ舞い降りる。
 戦が終わって数日が過ぎたが、平泉の地はいまだ深い雪に覆われていた。
 梅の花が蕾をつけ初め、春の訪れが間近であることを告げている。
 だが雲の切れ間から射し込む陽光は弱く、温かいとは言えない。
 昼はいくらかましになってきたが、夜はまだ僅かに肌寒い日々が続いていた。


「‥‥‥ん‥‥」
 袿の中で細い身体が小さく身じろぎした。
 蔀戸の僅かな隙間から微かに光が室内へ入り込んでいる。
 夜が明けた。そう理解するまでさほど時間はかからなかった。
 影を落とす長い睫がゆっくりと開き、若草を閉じ込めたような色の双眸が表れる。
「神子様、お目覚めでございますか?」
 耳に届いた優しい声に、望美は瞳を大きく見開いて驚愕した。
「‥‥し、しろ…がね?」
 やっとのことで声の主の名を呼んで、望美は酸素の足らない魚のように口をぱくぱくさせた。
 それは驚いた為でもあったが、声を出しているつもりだが音になっていないからそう見えるだけのこと。
 置かれている状況に混乱をしている望美とは正反対に、銀は落ち着いた声色で答える。
「はい、どうかなさいましたか。神子様」
 紫苑色の瞳を愛おし気に細めて、銀が穏やかに微笑む。
「あ、あのね、銀。ど‥‥どうしているの?」
 ようやく尋ねたい事を口にできたが、白い頬は恥ずかしさに真っ赤に染まっていた。
 朝が来て目が覚める。ここまではいつもの朝と同じ。
 しかし、今朝目覚めたら愛する人が隣にいたのだ。驚かない方がどうかしている。
「お覚えではないのですね」
 切れ長の双眸が悲しみの色を纏い、そっと細められる。
 まるで捨てられた子犬のようで、こちらが悪いことをしたような錯覚に陥る。
 けれど、訊かれても覚えがないのだから仕方がない。
 望美は思案気な顔を横に振って、謝罪の言葉を可憐な唇に乗せた。
「覚えてないの。ごめんなさい」
「いいえ。神子様がお謝りになる必要はございません」
「でも‥‥。 ね、銀…どうしてあなたがここにいるのか聞いてもいい?」
 こういう訊き方をしたら彼が断らないことをわかっていて訊くのは、卑怯かもしれない。
 けれど、銀に答えを訊くしか、今の状況を知る手立てはないのだ。
「それがあなたのお望みなら、お話いたします」



 昨晩は雪がちらついており、肌寒い夜だった。
 望美はこちらの世界の女性と同様の夜着に椿色の袿を羽織り、書物を読んでいた。
 じりじりと炎の燃える音が聞こえるほど静かな部屋は、望美にあてがわれた高館の一室。
 眠れなくて、以前に弁慶から借りた書物を読んで気を紛らわせていた。
「神子様、まだお起きでいらっしゃいますか?」
 書物に向けられていた意識が、耳に届いた声により中断された。
 優しく穏やかな声に微笑をうかべて返事をする。
「うん、起きてるよ。 銀、中に入ってきて?」
 なんの戸惑いもない望美の声に、銀は躊躇した。
 真夜中ではないにしろ今は夜半。女性の部屋に…想い人の部屋に入るなど承知できる筈もない。
 数日前から恋人という関係ではある。けれど、夜這いに来た訳ではないのだ。
 用があるから訪れたのは確かだが、戸口で済ませればいいような些細なこと。
「それは―――」
 できません。
 そう口に乗せればいいだけのこと。だが、銀にはできなかった。
 彼女が落胆した声を出すことが想像に容易い。
 愛しい人に悲しい想いをさせることを銀は望んでいない。
 柔らかな微笑みを、優しく澄んだ声を、曇らせたくはない。
「銀?どうかしたの?」
 望美は答えのない銀を不思議に思い、 褥から立ち上がり扉を開けた。
 夜着姿に袿を羽織っただけの無防備な望美の姿が、薄明かりの中ではっきり見える。
「‥‥‥‥っ」
 銀は紫苑の双眸を瞠って息を詰めた。
 白い鎖骨、すらりと伸びる腕。裾から覗く細い足首。無防備な笑顔。
 凝視しては失礼だと思うのに、瞳を逸らすことができない。
「銀?」
 彼の心の葛藤など露知らず、望美は緩く首を傾けた。
 束ねていない腰まで届く長い絹のような髪が、さらりと流れる。
 その髪から焚きしめた香の馨りがしたような気がした。
「このような刻限に申し訳ありません、神子様」
「ううん、気にしないで。それより中へ入って。ここは寒いわ」
 そう言って衣の袖を引く望美を振り払える筈もなく、銀は彼女の望むまま、室内へ足を踏み入れた。
 中は外に比べるべくもなく温かい。
 火鉢の傍に座るよう薦められ、銀はそこへ腰を降ろした。
「神子様?」
 向かいへ座るとばかり思っていた望美が寄り添うように座ったので、思わず声を上げてしまった。
「寒いからくっついてた方が温かいでしょ?」
 ふわりと微笑まれてしまったら、銀には何も言えない。
「ふふ、そうですね」
 切れ長の瞳を僅かに細めて柔らかく微笑む。
  望美が嬉しそうに笑ってくれてよかった、と胸を撫で下ろして。
 それはできません、と口にしていたら、おそらく今のような心が温まる時間はなかっただろう。
「神子様。明日、あなたのお時間を私に預けていただけませんか?
ご一緒したい場所があるのです」
「本当?明日、一緒にでかけられるの?」
 ずいっと身を乗り出してくる望美に、銀はくすっと笑って頷く。
 すると望美は若草の色を閉じ込めた瞳を輝かせ、嬉しそうに笑った。
「和議が終わるまで出掛けられないかもって思ってたから嬉しいよ」
「そうおっしゃっていただけて私も嬉しいです」
 瞳を細めて微笑む銀に、「楽しみだな」と呟いた。
 その後、望美は銀に話相手になってくれるように頼んだ。
 もう少しだけ、二人きりでいたかったから。
 そこまでは、覚えている。
 けれど、金の話をしていた後からぷっつり記憶がない。
「眠ってしまわれたので、寝所にお運びしたのです。
けれど、あなたが可愛らしいことをおっしゃるから、離れられなくなってしまいました」



「‥‥ん‥‥銀‥‥‥傍に…いて」
 何かを探すように白い手が彷徨う。
 銀は立ち去ることができずに、望美の傍へ膝を折った。
 白く細い手を優しく取ると、握り返すようにぎゅっと掴まれた。
「あなたが望まれるのならば、お傍におります。…私の神子様」



 ことのあらましを聴いた望美は、ぼっと顔を赤らめて銀から瞳を逸らした。
 恥ずかしくて顔から火が出そうだ。
「ふふ、本当にあなたという方は可愛らしい。そのように照れずともよろしいのに」
「ご、ごめんなさいっ!」
 ずっといてくれたということは、きっと眠っていないに違いない。
 申し訳ない気持ちや恥ずかしい気持ちでいっぱいで、望美は青くなったり赤くなったり、わたわたとしている。
 銀は紫苑の瞳を細めて穏やかに微笑んで。
「お気になさらず。神子様の隣で少しばかり休ませていただきましたゆえ」
「そ…それならいいんだけど」
 最早どう返せばいいかわからずに、しどろもどろに言の葉を口に乗せた。
 銀は優しい瞳で望美を見つめて微笑んで。
「では神子様、御前を失礼いたします。
お支度が整いました頃、お迎えにまいります」
 優雅に一礼した銀は静かに望美の部屋を出ていった。
 残された少女は嘆息して、苦笑した。



 降り積もった雪の中を銀の栗毛色の馬に乗り、二人は中尊寺へ向かった。
 彼の馬に二人乗りをするのは、あの日以来だ。
 ふと思い出した過去を懐かしんでいると、柔らかな声が降ってくる。
「神子様、どうかなさいましたか?」
「銀が馬に乗せてくれた時のことを思い出してたの」
 銀が里野で鍛練をしていると敦盛から聴いた望美は、敦盛に付き合ってもらい様子を見に行った。
 その時に、彼が誘ってくれたのだ。馬に乗りませんか、と。
「ああ…とても楽しい時間でございました。よく覚えています。あの時、私はあなたに怒られましたね」
「だって…」
 眉間に皺を寄せる望美に銀は、「わかっています」と微笑んで。
 絹のような黒髪を指先で一房絡め取り、それに口付けた。
『簡単に命がけなんて言わないで』
 言われた時はわからなかったけれど、今はそれがどのような意味を持つかわかる。
 あの時は命がけで守ることに躊躇いはなかった。
 それは今も変わらない。けれど、その時と違うのは、愛しい人の傍にありたいという想い。
「あなたを愛しています」
 紫苑色の瞳を愛おしく細めてされる愛の囁きに、望美の白い頬が一瞬にして桜色に染まる。
 銀は嬉しそうに、ふふ、と微笑んだ。



「神子様」
 差し出された手に迷うことなく手を伸ばして、望美は馬から降りた。
 粉雪がさくっ、と音を立てる。
 昨夜降っていた雪は明け方に止み、積もっていた雪は太陽の熱で僅かに溶け出してきていた。
 その中を歩いて、寺の境内へ足を踏み入れた。
 紅葉も素晴らしいが、一面の銀世界も儚気だが美しい。
 銀は境内の裏手に来て足を止めた。
 そこには、大輪の椿が溢れんばかりに花をつけ、それは見事に咲いている。
 所々、白銀の雪上に落ちている椿も赴きがあり目を惹いた。
 白銀の世界に紅色の花が映ゆる様は美しく、望美は瞳を輝かせた。
「わあ、綺麗」
「お気に召していただけたのならなによりです」
「こんなに素敵な所に連れてきてくれてありがとう」
 嬉しそうに笑う望美に、銀は柔和な微笑みを浮かべて。
「そうして椿を背に微笑むあなたは清らかでとても可愛らしい。
ふふ、ここにいるのが私だけでよかった」
「銀‥‥」
 椿の花のように頬を染める望美を愛おし気に見つめて。
 銀はゆっくりと歩を進めた。
「あなたに触れることをお許しください」
 少し掠れた熱い声が耳に届いたと同時に、細い身体が抱き寄せられた。
 耳に銀の息が微かにかかり、望美は身じろぎした。
「しろ…がね?」
「申し訳ありません。あなたが消えてしまうのではないかと…」
「消えないよ。ずっとあなたの傍にいる」
 腕の中でふわっと笑うと、ようやく銀の顔に微笑みが浮かんだ。
 長く固い指が、椿色の唇をそっと撫でる。どきん、と心臓が跳ねた。
 紫苑の瞳にじっと見つめられて、身体が溶けてなくなりそうだ。
「あなたを愛しています」
 銀の大きな手が頬に添えられて、鼓動が早さを増す。
 近付いてくる秀麗な顔に望美は瞳を閉じた。
 紫苑色の瞳を細めた銀は、赤く色付く唇に優しい口付けを落とした。
「…神子様の唇は甘くて柔らかいですね」
 初めての口付けの余韻を味わう間もなく紡がれた言の葉に、望美は顔を真っ赤に染めて。
 銀の広い胸に、赤い顔を隠すように埋めた。


 恋人としての時間が動き出したことを、白銀に映ゆる椿の花が静かに見守っていた。




【終】



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