あなたがいる幸福 朝陽が昇るには早い時刻に、ふと目が覚めた。 部屋の中は薄暗く、瞳を凝らしてようやく周囲が確認できる程度。 千尋は寝台から身体を起こして夜着の上に薄物を羽織り、寝台を降りた。 そして音を立てないよう細心の注意を払って、静かに部屋の扉を開ける。 僅かに開けた扉の隙間から誰もいないのを確認して、廊へ身体を滑らせた。 扉をそっと閉めると、千尋は部屋を後にした。 足元から冷たさが這い上がってくる。 春とはいえ夜の空気はやはり冷たい。木板の上を素足で歩いているから尚更だ。 (遠い…) 目と鼻の先にある距離の筈なのに、遠く感じる。 今までそんな風に感じたことはなかった。 それなのに今は、とても遠い。 走ってしまいたい衝動を堪えて向かった部屋の前で、千尋は足を止めた。 ふと目が覚めた時から早鐘を打っている心臓の音が、更に早さを増す。 千尋は扉の取っ手に両手の指先をかけて、そろそろと扉を開いた。 闇に慣れた蒼瞳には室の中がよく見える。白い塊があるのを確認した千尋は、室内へ足を踏み入れながら、静かに扉を閉める。 そろそろと白い塊――寝台へと近づく。 寝台では一人の青年が眠っている。 (よかった) 千尋は心底安堵したように、ほっと息をつく。 千尋が風早再会を果たしたのは、昨日のこと。 姉である一ノ姫の代わりに政務をしに行く途中だった。 「ここはいい国ですね」 そう声をかけられて、千尋は去っていく青年を追いかけた。 飛びとめる采女に「すぐに戻るわ」と言い置いて。 知らない青年。けれど、知っているのだと頭ではなく、魂が告げている。 青年の背中に両腕をいっぱいに伸ばしながら、千尋は叫んだ。 「風早っ!」 その声に振り向いた風早の顔は、様々な感情がない混ぜになっていた。 千尋の失われた記憶が戻るわけがないという驚き。 自分を想い出してくれたという嬉しさ。 そして、言葉では言い表せないほど、愛しているという深い想い。 もう離れないと、ずっと傍にいると風早は約束してくれた。 けれど一晩経って、もし彼がいなくなっていたらと思ったら恐くて。夢ではなかったと確かめたくて。 朝を待つなんてできなくて、風早の部屋に来てしまった。 (これくらいなら起きないよね) 頬や手に触れたら起きてしまうだろうけど、髪なら大丈夫だろう。 そう考えて、千尋は眠る風早の前髪に触れようと手を伸ばした。 「…眠れないんですか?」 「かっ、風早っ。起きてたの?」 伸ばした左手の手首を掴まれて、千尋は蒼瞳を驚きに瞠る。 そんな彼女に風早はふふっと笑う。 「ええ。千尋が入ってきた時から」 「音を立てないように気をつけていたのに?」 千尋の手首を放して、風早は寝台から身体を起こして彼女と向き合う。 「姫付きの従者ですが、一応武官ですからね。それで、どうしたんですか?」 先程とは少し言葉を変えて、風早は訊いた。 まだ夜が明けないうちに理由もなく千尋が訪れる筈がない。 昔は恐い夢を見たと言って駆け込んできたけれど、忍ぶように来たところを見ると違うだろう。 「千尋」 包み込むような優しい声で名を呼ばれて、千尋は顔をゆがめた。 飛び込むようにして抱きついてくる千尋の細い身体を、風早がしっかり受け止める。 千尋は風早の温もりを確かめるように背中へ両腕を回して、安心できる胸に顔をうずめた。 「……風早に…逢いたくて…」 数拍おいて耳に届いた小さな呟きに、風早は金色の瞳を細めた。 千尋を抱きしめて、耳元へ唇を寄せる。 「大丈夫です。約束は違えませんよ」 「…どうしてわかったの?」 ここへ来た本当の理由を見抜かれて、千尋は訊いた。 「どうしてだと思います?」 「わからないから聞いて…っ」 むぅとした顔で風早を見上げた千尋は、言の葉を最後まで紡げずに飲み込んだ。 風早のからかっている顔を想像していた。けれどそうではなくて、穏やかな顔で嬉しそうに微笑んでいたから。 優しい微笑みに、真っ直ぐに見つめてくる視線に、蕩けそうになる。 「ずっと千尋を見ているからですよ。昔も今も、ね」 「かざは…っん」 名を呼ぼうとした唇は、甘い口付けで塞がれた。 あなたがいる それが幸福 【終】 戻る |