星降る夜 常世の国との戦いが終わり、豊葦原に平和が戻ってから一年が過ぎた。 去年の今頃は即位式が終わったばかりで、国の復興に日々飛び回っていた。 戦いのあった橿原宮の修復はもちろん、常世の国の圧制で荒れ果ててしまった地の制定。 政を円滑に進めるための人員編成、橿原周辺の豪族との連携など、やらなければならないことが山ほどあった。 一年が過ぎ、ようやく地盤が固まり落ち着いてきているが、国を守る王として成すべきことは多くある。 それらは共に戦ってきた仲間たちの協力や支えがなければできなかった。 決戦の日の前夜、天鳥船の自室から繋がるバルコニーで風早が言っていた。王は一人ではない、と。 慣れない政を動かす大変な日々に、その言葉を実感した。 午後の執務を終えた千尋は心を弾ませながら、風早と待ち合わせた場所へ向かった。 今日はこれから五穀豊穣を祈る祭りに赴くことになっている。 自分が不在の間に発生した案件や、火急を要する件への指示など、信頼できる官人たちへ話をしてある。 狭井君から「たまの息抜きは必要ですから、祭りをゆっくり楽しまれてきてはいかがですか」と言われたので、千尋は心が弾んでいた。 初めて会った時、風早をよく思っていない狭井君だったが、今は千尋と風早の仲を引き裂くような真似はしなくなった。 「千尋」 浜床に面した階段に姿を見せた主を見つけた風早が柔らかく微笑む。 「風早」 愛しい人の名を呼んで、千尋は階段を降りて風早の元へ向かった。 「ああ、そんなに走ると転びますよ、千尋」 軽い足音を響かせ走り寄ってくる千尋に、風早は苦笑を浮かべた。 けれど、待ちきれなかったと言いたげな顔で走って来てくれる千尋が愛しい。 金色の双眸を嬉しそうに細める風早に千尋は飛びついた。 「ふふ、大丈夫だったでしょ。それより、楽しみだね」 風早を見上げて千尋が嬉しそうに微笑む。 その笑顔に風早もにっこり微笑み返した。 「そうですね。約束を実行できそうですし」 「やっぱり覚えてくれてたのね」 「俺が言い出したことですからね。 では、そろそろ行きましょうか」 祭りが本格的に盛り上がるのは陽が落ちてからだが、その前に王として挨拶をせねばならない。 だから遅れるようなことがあってはいけない。 陽が傾き、空が暁色へ変わっていく。 その空の下を二人は橿原の東、宇陀の少し手前にある村へ向かっていた。 豊葦原が平穏になり荒魂は現れなくなった。けれど、たとえ近くの場所への外出でも、通常は何人かの護衛をつける。だが、風早や忍人、布都彦など腕の立つ者が同行する場合は別だ。一人でも千尋を守り、自分の身を守ることができるので。それに千尋も戦うことができる。今は手になくとも、呼べば天鹿児弓が出現する。 久しぶりの二人きりの時間を楽しみながら歩いていると、小半刻弱の道のりはあっという間だった。 暁色の空は藍色に染まり始め、一番星が輝きを放っている。 「見えてきましたね」 村の入口に置かれた篝火の炎が、周囲を明るく照らしている。 「出雲のお祭りを思い出すわ」 あの時のお祭りも楽しかったけれど、今夜はそれ以上に楽しいだろう。 戦いのことなど考えずに心の底から楽しんでよいのだから。 「ええ。ですが、千尋はあまり楽しめなかったんじゃないですか?」 改めて訊く機会がなかったけれど、少しだけ気になっていた。 酒令で気分が悪くなってしまった風早を心配して、千尋は傍についていた。 風早は千尋が一緒にいてくれて嬉しかったけれど、酒で気分が悪くなったのは祭りが始まってさして時間が経っていない頃だった。 だから、祭りを十分に見て回れなかったのではないかと思う。 「そんなことない。楽しかったわ」 風早の意外な一面を見ることもできたし、一緒にいられた。 風早と祭りを見て回りたかったという気持ちはあるけれど、楽しかったのは本当だ。 「千尋は優しいですね」 「それは風早のほうだよ…」 首を僅かに傾けて微笑む風早に、千尋は白い頬を赤く染めて視線を逸らした。 嬉しいけれど、なんだか気恥ずかしい。 「早く行こう」 そう言って誤魔化す千尋に頷いて、風早は彼女の後ろに続いた。 「…そろそろ帰ろうか」 豆の甘露煮を一口食べて、千尋は風早を見上げた。 王として祭りを祝う言の葉を述べ、そのあとは村人と話をしたり、祭りを見て回った。 その間、村人から餡を包んだ餅や山菜のおこわ、ふきの煮物などを貰ったりして、それらを味わいながら楽しんでいたが、暮れ六つを告げる鐘が少し前に鳴った。 祭りだけならもう少しいてもいいのだが、それでは約束したものを見られない。 「そうですね。あまり遅くなってもいけませんし」 「うん、じゃあ帰りましょう」 いただいた甘露煮を食べて、村長に暇を告げ二人は村をあとにした。 漆黒の空に無数の星が瞬いている。 篝火で明るかった村から見た星空よりも綺麗だ。 「風早」 「はい」 「えっと…あの……」 手を繋いでもよい? 夜風に攫われて消え入りそうな小さな声が風早の耳に届く。 隣を歩く千尋の頬は赤く染まり、彼女は俯いている。 風早は愛しげに金色の双眸を細めた。 「ええ、喜んで」 そう言いながら、風早は千尋の細い手を取った。 少し冷えてしまったのだろう。指先がほんの少し冷たい。 千尋の指を温めるように、風早は掌で彼女の手を包み込むように握った。 「…風早の手、温かい」 包まれる優しさに安心する。 この大きな手が、いつも守ってくれた。 幼い頃、泣いている時はなぐさめてくれた。 お互いの手の温もりを確かめるように手を握って、ゆっくりと橿原宮へ続く道を歩いた。 「このへんで見ましょうか」 忍坂の手前、草原が広がる場所で二人は立ち止まった。 昼間なら風に揺れる緑の草と色鮮やかな花が美しいが、闇に慣れた目でもはっきり見えない。 けれど、恐くはない。闇は安らぎをくれるものだから。 道から数歩草原へと入り、二人は並んで腰をおろした。 「わあ、すごい…」 星空を見上げて感嘆の声を上げた千尋は、体重を後ろに乗せて草原の上に寝転んだ。 顔だけ上げて見ているより、この姿勢の方が首が痛くならないと思ったので。 「千尋、いきなり寝転ばないでください。ススキが混じっていたらどうするんです」 「あ、そうだよね。ごめんなさい」 出雲の地で、ススキで指先を切った時のことを思い出し、千尋は詫びた。 あの時、小さな傷だったにも関わらず、風早は血止めの薬草を探しに行ってくれたのだ。 「いえ、俺のほうこそすみません」 「風早は悪くないよ。 あ、ねえ、風早も寝転がってみない?」 「俺もですか?」 万が一、危険が迫った時に寝転んでいてはすぐに動けない。 夜盗や山賊の類が出た話は聞かないが、気は抜けない。 「ダメ?」 「…少しだけなら」 懇願するように見つめられたら、否とは言えない。 もし忍人が一緒にいたら怒られているだろうなと思いながら、風早は千尋の隣で草の上へ身体をあずけた。 「星が降ってきそうですね」 「うん。すごく綺麗。あっ、今流れたよね?」 一瞬のことだったが、確かに星が流れた。 視界の片隅だったので、しっかりと見えなかったけれど。 「流れましたね」 「もう一回、流れないかしら」 その声に星空から千尋へ視線を滑らせた風早は小さく微笑んだ。 真剣に星空を見回している顔が愛しくて。 「では数刻だけ待ってみましょうか」 「え、でも…」 「大丈夫ですよ。まだ時間はあります。それより見ていないと見逃しますよ」 そう言われて、慌てて夜空を見上げた蒼瞳に、流れ行く星が映った。 それから戻らなければならない刻限まで星空を見ていたけれど、星が流れることはなかった。 けれど、降るような星空を二人占めできた時間は楽しくて、心が満たされる幸せな時間だった。 【終】 戻る |