束の間の休息




 木々の葉を揺らす風は、まだ少し冷たさを含んでいる。
 肌に心地よいと感じるのは、もう少し先だろう。


 官人から持ち込まれた竹簡に目を通していた千尋は、不意に竹簡から視線を上げた。
 ほんの僅かだったが、とてもよい香りが部屋の中へ流れ込んできたので。
 明り取りを兼ねた格子がついた丸い窓に視線を滑らせて、千尋は顔を綻ばせた。
 雪のように白い梅の花が綺麗に咲いている。
 ほぼ毎日、朝から夕刻までこの部屋で政務をしているのに全く気づかなかった。
 それだけ政務に必死になりすぎて、周りが見えなくなっていたのだろう。
「…いい天気」
 ちょっとだけ宮の外に出たいな、と思ったのを、千尋はかぶりを振って追いやった。
 のんびり羽を伸ばしている暇はない。
 それに、一息つくにしても常世の皇――アシュヴィンから届いたこの竹簡の返事をしなくてはならない。
 再び竹簡へ視線を戻した千尋の耳に、静かな声が届いた。
「失礼いたします」
「柊」
 千尋は部屋の入口に立っている、隻眼の男の名を呼んだ。
「我が君、少々休憩されてはいかがですか」
 意外なことを言われて、千尋は蒼瞳を瞠った。
 少しだけ息抜きしたいな、と思っていたのを見抜かれたのかと一瞬思ったが、さすがにそれはないだろうと思いなおす。
 星の一族である柊は、未来が見える瞳を持っている。けれど、人の思惑がわかるわけではない。
「大丈夫よ。休憩したばかりだもの」
 半刻程前、昼の休憩をしたばかりだった。
「それは存じておりますが、我が君は心ここにあらずのようでしたので」
 笑みを浮かべて指摘する柊に、千尋は苦笑した。
 風早もそうだけれど、柊もいつもたやすくこちらの心を見抜くことに長けている。
「梅の花が咲いていたからつい、ね」
「少々妬けますね」
「え?」
「我が君の心を奪うとは梅の花も罪深い」
「な、なに言って…!」
 白い頬が瞬く間に赤く染まってゆく。
 そんな彼女に柊はふふっと笑った。
「本当のことですよ。 ところで、先程の件ですが」
 千尋が本気で怒り出す前に、柊は矛先を変えた。
「やはりお休みされるのがよろしいかと。外の空気を吸われてきてはいかがでしょう」
「…そうだね…そうしようかな…」
 しばし逡巡して千尋は言った。
 竹簡を持ってきた官人は「返事は急ぐ必要はないとのことです」と言っていた。
 千尋が日々いっぱいいっぱいなのをアシュヴィンなりに気遣ってくれているのだろう。
「それがよろしいかと存じます。あとのことはお任せください」
「うん、じゃあ、甘えさせてもらうよ」
 漆塗りの木箱に竹簡を納めて、千尋は椅子から立ち上がった。
 誰もいない部屋においていくのもまずいだろうと、千尋は木箱を手に取った。
「我が君、私が持っていきますよ」
「平気よ」
「そうですか?ですが、風早が待ちくたびれるといけませんし」
 ぴたり、と千尋の動きが止まる。
 驚きに蒼瞳を瞠る主に、柊は顎に指先を添えて軽く首を傾けた。
「どうかなさいましたか?」
「どうかって、柊、あなた風早が待ってるなんて一言も言ってないじゃない」
 まさかとは思うが、わざとではないだろうか。
 瞳を鋭くした千尋に柊は口端を僅かに上げ微笑した。
「申し訳ございません」
 少しも反省しているとは思えない表情の柊に、千尋は柳眉をひそめた。
 抗議したくて仕方ないが、言い合いをしている時間がもったいない。
 そう自分を納得させて、千尋は竹簡を納めた箱を柊に差し出した。
「じゃあ、悪いけどお願いするわ、柊」
「御意」
 千尋は柊に箱を渡し、行ってくるね、と部屋を後にした。
 部屋から出た千尋は周囲に視線を走らせる。
 柊は風早が待っていると言っていたけれど、彼はどこにいるのだろう。
「千尋」
 名を呼ばれて、そちらへ視線を向けると穏やかに微笑む風早がいた。
 千尋は嬉しそうに微笑んで、風早の傍へ向かう。
「風早。待たせてごめんなさい」
「いいえ。俺も今来たところですよ」
「そうなの?よかった」
 ほっとしたように千尋が微笑む。
「行きましょうか」
「ええ」

 そうして二人は揃って橿原宮の西の玉垣から宮を出た。
 宮の外は中と比べて緑が格段に多い。
 草原には名はわからないが、美しい野花が咲いている。
「もうすぐ春だね」
 青空を見上げて、千尋は呟いた。
 豊葦原に帰還してまもなく一年が過ぎようとしている。
 その一年が来る頃――桜の咲く季節になったら、豊葦原をあげての大きな儀式がある。千尋が王となる、戴冠式だ。
「千尋」
 柔らかな声で名を呼ばれたのと同時に、手が温かいものに包まれる。
 不意に手を握られた千尋は蒼瞳を驚きに瞠って、風早を見つめた。
 金色の穏やかな双眸が千尋を優しく見つめている。
 心配する必要はないと言われているようで、心が安らいでいく。
「これからも傍にいてくれる?」
「ええ。千尋がそう望むのであれば」
「約束よ?」
「はい」
 真摯な瞳で見上げてくる千尋に、風早は瞳を細めて微笑んだ。
「千尋、醍醐池に行ってみませんか?」
 醍醐池は宮の近くにある、澄んだ水を湛える大きな池だ。
 春には桜の花弁が浮かび、夏には青空と雲を映し、秋には紅葉が映え、冬は月影を映す。
 初春の今は、紅梅が見事な花をつけているのが見られる。
「うん、行こう」
 そして二人は手を繋いで、醍醐池へ足を向けた。


 醍醐池に近づくにつれ、視界が眩しくなっていく。
「すごいキラキラしてて綺麗」
「いい天気でよかったですね」
 晴れていなければ、水面が陽光を弾いて煌く様は見られなかった。
 出かけるのならば曇り空より青空が断然いい。
「ねえ、風早」
「なんですか?」
「座ってゆっくりしようよ」
「いいですね」
 二人は手を放し、池のほとり、草が生えている所へ二人並んで腰を下ろした。
 立っているより水面との距離が近くなった分、澄んだ水の水底がよく見える。
 立てた膝の上に肘を乗せた千尋は、澄んだ瞳を風早に向けた。
「…那岐は今頃昼寝してるのかしら」
 楽しそうに言った千尋に風早はふふっと笑う。
「かもしれませんね。千尋もしますか?」
 楽しげに訊いてくる風早に千尋は緩くかぶりを振った。
「風早といるんだもの。昼寝なんてしないわ」
 にっこり微笑む千尋に、風早は金色の瞳を僅かに細めた。
 幼い頃からかわらない素直さと、可愛らしい笑みに愛しさが募る。
「嬉しいことを言ってくれますね、千尋」
「だって本当のことだもの」
「参ったな…。本当にあなたは…」
 困ったように微笑む風早に、千尋は不思議そうに首を傾げた。
 風早は腕を伸ばし、華奢な身体を引き寄せるようにして抱きしめた。
「かざ…はや?」
 不意に抱きしめられて、千尋は戸惑いながら愛しい人の名を呼んだ。
「すみません、少しだけ…」
 掠れた甘い声が耳元で囁く。
「少しだけなんて…」
 いやだよ、とは言えず千尋は言葉を飲み込んだ。
 さすがにそれは大胆すぎて口にできない。
 千尋は言えない代わりに身体の力を抜いて、風早に預けた。


「そろそろ戻らないといけませんね」
 数刻後、風早はそう言うと千尋の身体を解放した。
「風早…」
「すみません、千尋。あなたの息抜きに来たのに」
 申し訳なさそうに眉を曇らせる風早に千尋は首を横に振った。
「ちゃんと息抜きになったよ。一緒に来てくれてありがとう」
 そう言って、千尋はふわりと微笑んだ。
 次は桜が咲いてる頃に来られたらいいね。
 そんな話をしながら、二人は橿原宮へ続く道をゆっくり歩き出した。




【終】



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