幾夜明けても




「千尋」
 柔らかな声に名を呼ばれて視線を滑らせる。
 蒼瞳に映ったのは、穏やかに優しく微笑む人。
 とても大切で、失いたくないと切に願う人。
 千尋は傍に行こうと足を動かそうとした。だが鉛がついたように重くて動かない。
 必死に伸ばした手は空を切るばかりで、少しも風早に届かない。
 いくらもがいても、その場から一歩も動くことができない。
「千尋…どうか幸せに…」
 寂しそうに微笑むと、ざあっと吹いた強い風と共に風早の姿が消えた。
「いや、行かないで!かざはやあーーっ!」
 闇の中に千尋の悲痛な叫び声が響いた。
 叫びと共に闇は薄れ、周囲がまばゆい光に包まれる。
「…夢…」
 寝台の上で跳ね起きた千尋は呟いて、重い溜息をついた。
 心臓は早鐘を打ち、額にはうっすら汗をかいている。
 千尋は汗ばんだ手で、ぎゅっと掛布を握り締めた。

 風早は幼い頃からずっと傍にいてくれて、これから先もそれは変わらないと思っていた。
 けれど、豊葦原と常世の国を脅かしていた元凶である禍日神――黒龍を倒した時に、変わってしまった。
 黒龍は最後の足掻きで瘴気を振りまき、千尋を穢そうとした。
 風早は千尋を守るため、黒龍の瘴気を変わりに受けた。
 そして、穢れた身で千尋の傍にはいられないと風早は国を去った。
 最後に言葉を交わしたのは、戴冠式の日。
 春の陽射しは温かいのに、心の中は凍りついていた。
 その日から幾日も――数ヶ月、経っている。
 そのあいだ、幾度となく同じ夢を見ている。
 目の前に風早がいるのに近くに行けない、叫んでも消えてしまう、夢を。
「風早…」
 千尋が呼んだなら、俺はどこへでも行けますよ。
 そう言って微笑んだ人は、もういない。
「風早…」
 もう一度、噛み締めるように名を呼んだ。
 決して返事はなく、ここへ彼が来ることはない。
 でも、もしかしたら来てくれるかもしれない。
 泡のように儚い望み。
 泡沫の夢。
 約束が違えられることはないと本当はどこかでわかっているけれど、それでも望みを捨て去ることはできない。
 想いを消し去ることはできない。

 優しい金の双眸が見つめてくれることもない。
 穏やかに微笑む顔は、記憶の中でだけ鮮やかに蘇る。

 どうしていまここにいてくれないのだろう。
 こんなにも傍にいて欲しいのに。
 抱きしめて「大丈夫ですよ」と言って欲しいのに。
 離れた今も心は繋がっていると信じていても、逢いたい気持ちは拭い去れない。

 蒼瞳から溢れた雫が頬を伝い、流れ落ちた。
「そんなに泣かないで、千尋」
 困ったような優しい声が耳の奥で蘇る。
 でも、それだけだ。
 ふわりと抱きしめてくれる大きな手はない。
 安らぎをくれる温もりもない。



 やがて空が白み始め、夜が明けた。
 けれど、どれだけ夜が明けても、風早がいる朝は来ない。

「…いつか――」

 生を終えて魂だけになったら、風早に逢えるだろうか。
 あなたが好きだった、と伝えられるだろうか。
 触れることが適わなくても、幻でないあなたに逢いたい。
 幾夜を過ごしたら、あなたに逢うことが叶うのだろう。


 そっと瞳を閉じると、「千尋」と呼ぶ優しい声が聞こえた気がした。




【終】



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