平気じゃないのはたぶん僕




 天鳥船が熊野の地に着陸したのは、紅葉が美しい季節だった。
 その熊野の地で、紆余曲折あったが、千尋と那岐は力を合わせて禍日神を倒した。力尽き、黄泉の国へ魂が下ってしまったのだが、那岐が肌身離さず持っていた生玉と彼の師匠の手助けがあり、生還する事ができた。
 禍日神の影響で荒れていた常世の国だったが、災厄の元凶がいなくなったことで、元通りの美しい世界へ戻りつつあった。
 豊葦原を支配していた常世の国の武官や文官、兵士たちは自分たちの国へと戻り、豊葦原は平和を取り戻した。
 五年前の戦で失われる前の姿、美しく豊かで、恵の溢れた緑の大地へと。

 やがて季節は緩やかに巡り、桜の季節がやってきた。
 橿原の宮の西には桜の名所があり、今がちょうど見頃になっている。
「風早」
「おや?どうしたんですか、千尋。そんなに慌てて」
 駆け寄ってきた主に風早は首を傾げた。
「那岐を見なかった?」
 訊かれて、風早は左手を顎に添える。
「そういえば、午後になってから見かけてませんね」
 千尋を手伝うと言っておきながら、放り出してどこかへ行ってしまったのかもしれない。
 困ったものだな、と風早は内心でごちる。
 那岐が勝手気侭なのは今に始まったことではないけれど、千尋を困らせる行動はして欲しくない。彼女が最も心の拠り所にしているのが那岐だからだ。小さな頃から傍に居て、守り育てた姫が離れて行くのは寂しいけれど、誰よりも幸せになって欲しいと心から願っている。繰り返される歴史の中で、悩み苦しみ、それでも前に進む千尋を見ているからなおのこと。
「なにか約束をしていたんですか?」
 風早が訊くと、千尋は左右に首を振った。
「そうじゃないの。ただ那岐の姿が見えなくなっちゃったから不安で…」
 蒼瞳が悲しみの色を湛えて揺れている。
「千尋…」
 心配そうな声で名を呼ばれて、千尋は慌てた。
「もう少し探してみるね」
 笑顔を作ってそう言うと、千尋は走り去った。
 宮の中で那岐がいそうな場所を全て探したが、彼の姿はなかった。
 そうすると残っているのは、橿原の家だ。本当の橿原の家ではなく、那岐が鬼道で作り出したものだが。
 通り慣れた道を行き、千尋は橿原の家へ向かった。結界の中へ入ると、正装から制服へと衣が変化する。今ではすっかりそれに慣れた。
 靴を脱いで家に上がりリビングへ行くと、ソファの上で那岐が寝転がっていた。
 彼の顔の上には雑誌が乗っていて、起きているのか寝ているのかわからない。
「那岐」
 名を呼ぶと、那岐は気だるそうにむくりと上半身だけを起こした。
 薄緑色の瞳が千尋へ向けられる。
「なに?」
「なにって、那岐がいないから探したんだよ。そんな言い方しなくなっていいじゃない」
 蒼瞳に微かな怒りを滲ませ、千尋はソファに近づく。
 怒っている千尋に、那岐はふぅと嘆息し口を開いた。
「僕が居ても居なくても、千尋は困らないだろ」
 さして興味のないような声だった。本気で言っているように思える。
 けれど、千尋に引く気はない。
 千尋は那岐の傍に腰を下ろして、蒼瞳で彼をじっと見つめる。
「私は那岐に傍にいて欲しいの」
 那岐は薄緑色の双眸を伏せた。
 もし僕がいなくても、千尋の周りには助けるヤツが何人もいる。
 風早はもちろん、忍人、柊、布都彦、遠夜。それから橿原宮にはいなくても、サザキやアシュヴィン。
 千尋が望めばいつでも手を貸すだろう。
 だから、僕が常に千尋の傍にいる必要なんてない。
 僕が知る優しさの全ては千尋だけど、千尋の知る優しさは僕だけじゃない。
 千尋を縛りたくても縛れない。
「千尋は僕がいなくても平気だろ」
「そんなことない!」
 必死な瞳で、千尋はうったえる。
 那岐が急に冷たくなった理由はわからないけど、那岐にいて欲しいのは本当のことだから。
「那岐がいないと平気じゃないよ!」
 …全く。本当に頑固だな、千尋は。
 呆れるくらい真っ直ぐで、駆け引きなどない。
「……違うね」
 呟いて、那岐は瞳を開くと千尋の華奢な身体を抱き寄せた。
 そして腕の中にしっかり閉じ込める。
 縛れない。
 いなくても平気だろ。
 そんなことを言っておきながら抱きしめるのは、矛盾している。

 平気じゃないのはたぶん僕さ…。

 言葉では伝えられない。
 口にはできない。
 だから胸の内で呟いて、那岐は千尋の柔らかな唇にキスを落とした。「好きだ」と伝えていない唇で。 




【終】

初出・WEB拍手 再録にあたり加筆
「03.平気じゃないのはたぶん僕(恋したくなるお題・手放せない恋のお題)」

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