あの日の約束




 夜が明けて数刻経った空を見上げて、千尋は頬を綻ばせた。
 雨の心配など無用とばかり、晴れ渡っている。
 真っ青な空は見ているだけでも気分が弾む。なにより、今日の予定を思うと嬉しくて仕方ない。
 約束したのは一昨日の夕刻。山際に太陽が沈みかけている頃だった。



 豊葦原が平和になり、冬から春へ季節は巡った。
 肌を刺すような寒さから、心地よさを感じる温かさになり、春の訪れを告げるように、花々が咲き始めている。
 橿原宮の近くに桜の名所があり、もうすぐ満開になりそうだ、と柊から聞いた。
「行きたいな」
 千尋がぼそりと呟くと、柊と一緒にいた忍人が意外なことを言った。
「では行ってみるか」と。
 驚いて蒼瞳を瞬かせた千尋は、すぐに瞳を輝かせて頷いた。
 忍人が誘ってくれるような言葉を口にしたのは初めてだ。
 彼の中では二ノ姫の身の安全を守らなくてはとか、一人で行かれては困るとか、そういうことを考えた結果なのかもしれない。
 それでも忍人と一緒にでかけられるのは嬉しい。
「では私もご一緒に参りましょう」
「えっ?」
 右手を胸に添えて微笑む柊に、千尋は思わず声を上げてしまった。
 はっとして口元を押さえる千尋に、柊はふふっと笑いを零す。
「冗談ですよ、我が君。残念ながら明日から三日程でかけますので」
「そうなの?知らなかったわ」
「ですから、忍人、お願いしますね」
「わかっている」
 忍人がきっぱり言い切る。
「二ノ姫」
 静かな落ち着いた声で呼ばれて、千尋は首を少し傾げた。
「なんですか、忍人さん」
「いつ行くつもりだ?」
 間もなく夜になるから、これからでかけるのは無理だ。
 明日でかけるというのも、急すぎるだろう。おそらくでかけてもいいと許可は出るだろうけれど。
 少し考えて、千尋は口を開いた。
「明後日の午後でもいいですか?」
「かまわない。では行く時に声をかけてくれ」
「はい」



「おはようございます、千尋。今朝は早いですね」
 廊を通り過ぎる風が、肩口で切りそろえられた黄金色の髪を撫でた。
「風早、おはよう。うん、ちょっとね」
 千尋がはにかむように微笑む。
 その微笑みに風早の金色の瞳が僅かに細められた。
「え?」
 今、風早が何か言ったと思うのだが、聞こえなかった。
「桜が満開だといいですね」
 風早がにっこり微笑む。その笑顔の中に隠されてしまった言葉に、千尋は気づかない。
 千尋は満面の笑顔で頷いた。


 せせらぎの音が聞こえる。
 初めてここに来たのは、常世の国と戦うために橿原宮を攻める時だった。
 あの時にした約束を忍人は覚えてくれているだろうか。
 千尋は小さく息をついた。
「大丈夫か?」
 気遣う優しい声が聞こえて、千尋ははっとした。
「大丈夫です。少し考えごとをしていて…」
 そう言ってしまってから、千尋は後悔した。
 こんなことを言ったらまた忍人に怒られてしまう。
 せっかく花見に来たのに、そこへ着く前に説教されてはなんのために来たのかわからなくなってしまう。
 すみません。不注意ですよね。
 そう言おうとした千尋の耳に忍人の声が届く。
「見えてきたな。…千尋」
「は、はいっ」
 不意に名を呼ばれて、千尋は思わず姿勢を正した。
 それがおかしかったのか、忍人はふっと微笑した。
「向こうに渡るぞ」
 言うが早いか、水面から顔を出す石へ飛び、そこから違う石へ飛んで向こう側へ忍人が渡った。
 川幅はおよそ六尺程の小川なので、渡るのは簡単だ。
「滑らないように気をつけろ」
 言いながら差し伸べられた手に、千尋は蒼い瞳を瞠った。
 こういうことをする人だったかな、と思いながらも頷いて、忍人の手を借りて千尋は川を渡った。
「忍人さん、ありがとうございます」
「いや。では行こう」
 そして二人は桜の樹の傍へと向かった。
 風に散ったか、少し前に咲いていた花が散ったのか、地面の所々に桜色の花弁が落ちている。
 けれど柊の言った通り、明日にでも満開になりそうだ。見事な枝ぶりの樹は、たくさんの花を咲かせている。
「きれいですね」
 千尋が蒼瞳を細めて微笑む。
 陽射しは暖かくて、流れる風は優しくて、水の流れる音が聞こえる。
 とても静かなところだ。
「……忍人さん、覚えていますか?」
 桜から隣にいる忍人へ千尋は視線を移した。
 見つめてくる千尋の蒼瞳を見つめ返して、忍人が口を開く。
「君と来ようと約束したことか?」 
「覚えていてくれたんですね」
 千尋が嬉しそうに顔を綻ばせる。
「心外だな。俺が君との約束を忘れるわけがないだろう」
 忍人の言葉に、千尋の心臓が跳ねる。
 嬉しさに思わず頬が緩む。
 思い切って訊いてよかった、と千尋は心の中で呟いた。
「…君を泣かせたくないからな」
「忍人さん…」
「全く…君は忙しい人だな」
 笑ったと思ったら途端に瞳を潤ませる。
 そんな彼女を呆れたような困ったような顔で忍人は見つめた。
「…けれど…千尋、そんな君が俺は愛しい」
 囁いて、忍人は千尋の華奢な身体を腕の中に閉じ込めた。


 柔らかな陽射しの中、空が暁に変わるまで、二人は寄り添って桜を見ていた。




【終】


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