生きていることを確かめたい ひやり、と首筋に冷たさを感じた。刹那のそれは気のせいにするには確か過ぎる感触で、不意に嫌な場景が脳裏を掠めた。 想像すらしたことがない場景に心が焦る。 彼が居なくなる筈がない。 君の作る国のために戦いたい、と言ってくれたのだ。 禍日神を退け、豊葦原に恵が戻り平和な日々が戻ったけれど、戦いがなくなっても傍にいてくれて、それはこれからも変わらない――変わって欲しくない。 だから、気のせいだ、と。そんな事がある訳ない、と。そう思うのに、真実だと何かが告げる。 千尋が見たのは、宮の回廊に仰向けで倒れた忍人の姿。怪我はどこにもしていない。唇は満足そうな笑みをたたえているのに、堅く閉ざされた黒曜色の瞳はもう二度と光を映さないように見えた。回廊の石畳には双剣の生太刀が刺さり、さながら墓標のようだ。病のために日中床から起き出す時間が少なく、最近白くなった肌が、更に白い。 二度と覚めない眠りの中に忍人がいるように見えた場景に、心が砕け散りそうだ。 今は戴冠式の真っ只中。王として整然とした態度をしていなくてはいけないのはわかっている。けれど、冷静でいられるような場景ではなかった。 戴冠式を放り投げ、千尋は忍人がいる所へ確かめに行きたかった。 狭井君や官人長から説教を受けることになろうともかまわない。 杞憂であったならいい。けれど、もし本当のことだったらと考えて、すぐに否定した。豊葦原では言葉に力が宿る。悪しき事柄をむやみに言葉にしては駄目だ。たとえ声にしていなくとも、思ったことでも真実になってしまいそうで怖い。 人目には千尋がカタカタと震えているようには見えない。千尋本人も震えていることに気がついてい なかった。 「千尋、どうかしましたか?」 気遣う声に視線を滑らせると、心配そうな顔をした風早の姿があった。 「すごく嫌な予感がして…行きたいの」 簡潔過ぎる言葉は焦燥にかられる千尋の心情を表しているかのようだった。 風早はどこへとも何故とも問わず言った。 「俺がなんとかします。だから行ってください」 「風早…」 千尋は青瞳を一瞬だけ瞠って、「うん」と頷くと場景に見た場所へ向かって走り出した。 どうか嘘であって欲しい。 「王が戴冠式を抜けてくるなんて前代未聞だ」と怒ってくれたらいい。ガミガミと説教してくれたらいい。 正装は裾が長く足に絡まって走りにくい。だから千尋は裾をたくし上げ走った。 忍人さん!私をおいて逝かないで…! 王であろうと――彼の望む王でありたいと努める心は、今の千尋にはなかった。好きな人を想う、女としての心しかない。 「忍人さんっ!」 回廊の真ん中に忍人が倒れている。脳裏を掠めた嫌な場景の姿そのままに。彼の周囲に幾人か倒れていたが、千尋の青瞳には忍人だけしか映っていない。 忍人の傍らへしゃがみこみ、彼の頬へ手のひらを当てた。驚くほどに冷たい頬に手が震える。血の気がなく白い頬には生気が見えない。けれど、笑みを象る唇は生きているように思えて、千尋は震える指先でそれに触れた。すると微かな呼吸を指先に感じた。 「…生き…て…」 千尋の震えた唇から掠れた声が零れる。 微かだが呼吸をしているのだから、生きているのは間違いない。 けれど、このまま呼吸が止まってしまったらと思うと怖くて、忍人が生きていることを確かめたくて、千尋は彼の上半身を抱き起こし胸に抱きしめる。 「忍人さん!忍人さん!目を開けてください!」 千尋は必死に呼びかける。 「忍人さんっ!……やッ…やだ!おいて逝かないでー!」 心音が小さくなっていくのが怖くて、千尋は叫んだ。 「……………泣い…て…いる…の…か……」 掠れた小さな声が腕の中からして、千尋はハッと忍人の顔を見た。うっすらとだが、黒曜色の瞳が開いている。 青瞳から零れた涙が忍人の頬を伝い落ちる。 「忍人さんっ!」 「……泣かな…でくれ…」 忍人は鉛のように重く感じる腕をなんとか持ち上げて、千尋の頬を伝う涙を指先で拭う。 「…心配させて、すまない…」 千尋は首を左右に振った。肩に触れる長さの黄金色の髪が陽の光を弾いて煌く。忍人は眩しそうにそれを見つめていた。 ようやく落ち着いてきた千尋は手の甲で涙を拭い、微かな笑みを浮かべる。 「立てますか?」 千尋に誰かを呼びに行くという選択肢はなかった。 今は離れることがとても怖かったから。だから、傍にいたい。 忍人が生きていることを確かに感じられるところにいたい。 「すまないが、手を貸してもらえるだろうか」 一人で立ち上がりたかったが、黄泉の国へ片足を突っ込んでいただろう自覚があるし、なにより身体が重くて思うように動かない。先程腕を動かしたのが精一杯だった。 千尋の手を借りてはいたが、極力頼らないようにしながら忍人は立ち上がった。少しの眩暈がして足元がふらついたが、なんとか踏ん張った。 「ありがとう、千尋。助かった」 礼を言って華奢な手を離す。そして周囲に視線を走らせた。 「…こいつらをなんとかしないと……」 呟く忍人に、千尋は初めて人が倒れていることに気がついた。無我夢中だったので、全然気がつかなかった。 「忍人さん、この人たちはいったい…?」 「ああ。君の戴冠式を――」 言いさして、忍人は千尋を見た。 自分がどれくらい気を失っていたのかは定かではない。 だが、民衆の声が聴こえてくるのは確かだ。ということは、戴冠式の最中だということにならないだろうか。 「あの、忍人さん?」 押し黙ってしまった、虎狼将軍の異名を持つ男の名を呼ぶ。 「二ノ姫。戴冠式は?」 公式の名で自分を呼んだ忍人に千尋は視線を泳がせる。その仕草が答えを物語っていた。 彼女は戴冠式を抜け出して来たのだ。 「二ノ姫」 「だって!心配したんです!」 「何を?」 「忍人さんが倒れているのを見て、それで私…」 「俺が倒れているのを君が見た?それはどういうことだ?」 先程まで生死の境をさまよっていたとは思えない迫力がある。 生きていてくれて嬉しいのに、素直に喜べないような気がする。 「あの、話すと長くなるんですけど、ちゃんと話しますから。怒らないでください」 「怒った覚えはないが…。まあいい。聞かせてくれ」 隠すつもりはなかったし、話すつもりでいたので、千尋はかいつまんで説明した。 それを黙って聞いていた忍人は千尋の話を聞き終え、おもむろに腕を組んだ。 「理由はわかった。だが、王として軽率な行動だ。だいたい風早は君に甘すぎる――」 およそ四半刻にわたり、千尋は王としての自覚云々を忍人に説教された。 けれど――。 「心配をかけてすまなかった、千尋」 忍人はそう言って、千尋の華奢な身体を抱きしめた。 千尋の温もりを確かめるというよりも、むしろ、生きていることを確かめたい。そういう風に思える抱擁だった。 【終】 戻る 『抱きしめる』5のお題 3.生きていることを確かめたい 【starry-tales】様(http://starrytales.web.fc2.com/) ※Web拍手より再録 |