佐伯篇 リビングの時計を見て、そろそろ来る頃かなと頬を綻ばせたの耳に、さあさあと音が聞こえた。 窓の外を見れば、小雨が降り始めていた。先程まで青く広がっていた空に灰色の雲が見える。この空模様だと雨は止まないかもしれない。 「……大丈夫かな、虎次郎くん…」 これから来る予定の恋人が雨に濡れてしまわないか心配で、は眉を顰めた。 もし彼が雨に濡れていたら髪や顔などを拭えるように、箪笥からバスタオルを用意してソファに置く。 男物の着替えはないから、彼がずぶ濡れだったらどうしようと心配した時、来客を知らせるベルが鳴った。このアパートにはインターフォンがついていないので覗き穴から外を確認し、は急いで玄関ドアを開けた。 扉の前に立つ佐伯は濡れていた。 「タオル持ってくるね」 言いながら部屋へ駆け込みタオルを取って、玄関へ引き返す。 佐伯は差し出されたタオルを礼を言って受け取った。幸い小雨だったのと走ってきたのとで濡れているのは髪と顔、服は濡れたがすぐに乾く程度の濡れだ。 上がってと促すに頷いて、お邪魔しますと礼儀正しく口にし、佐伯は部屋に上がった。 「コーヒーでも淹れるわ」 「ああ。ありがとう」 はキッチンで簡易な袋入りのドリップコーヒーを二人分淹れ、リビングへ運ぶ。 淹れ立てのブルーマウンテンが入ったマグカップを佐伯に渡す。 「サンキュ」 一口飲むと、雨で冷えていた体に染み入った。 「」 「ん?」 名を呼ばれて、マグカップを口へ運ぼうとしていた手を止め、マグカップをテーブルへ戻す。 「…あのさ、君に逢いたくなった理由なんだけど」 「あ、うん」 今日、佐伯と逢う約束はしていなかった。 電話があったのは、30分程前のこと。彼が電話をしてくることは珍しいことではないが、開口一番に「これから逢えるかな?」と言われたのは初めてだった。 逢いたいと言われたのが嬉しくて、は二つ返事で頷いた。 逢瀬の理由など気にしていなかったし、訊こうとも思っていなかった。逢いたいと思う気持ちに理由なんか必要ないと思うのだ。としては。 「友達から携帯に写真が送られてきて、君に逢いたくなったんだ」 「どんな写真?」 逢いたくなるような写真が気になって訊くと、佐伯はそれを見せてくれた。 彼の携帯に送られてきた写真というのは、とても仲が良さそうなカップルだった。二人のうち男性の顔には見覚えがあった。 「この人って不二君、よね」 「うん。俺と不二が幼馴染だって話、したことあったよな」 「ええ、小さい頃よく一緒に遊んだって言ってたね」 「不二の奴、先月結婚してさ、今パリで新婚旅行中らしいんだ」 は驚きに目を丸くした。 「えっ?ってことは、新婚旅行中の写真を虎次郎くんに送ってきたの?」 「よっぽど嬉しいんだろうな、不二」 「それはそうじゃない?好きな人と結婚したのなら」 「それもあるだろうけど、この二人も幼馴染なんだよ。だから、不二にしたらやっと結婚できたって気持ちなんだと思う。だからまあ、写真を送ってくる気持ちはわからないでもないけどな」 「…幸せだよって虎次郎くんに伝えたかったんじゃない?」 「うーん、そうかもしれないけど、結婚式に出席してるのに見せつけられてもなあ」 ぼやきながらも佐伯はどこか嬉しそうだ。そんな彼に小さく笑ったは、彼が逢えないかと言った理由がわかった気がした。 「それで電話くれたの?」 「無性にに逢いたくなってね。逢って、抱きしめて――」 続く言葉は重なった唇に溶けて消えた。 END BACK |