Annular eclipse of the sun




 5月21日、東京では173年ぶりとなる金環日食が起こる。
 その日が今日で、朝練中の今、日食の真っ最中だ。
 金環日食の名となる、太陽が月にほぼ隠れ10パーセント程しか見えなくなり、細いリング状になるまで、あと約5分。
 そのロマンティックな瞬間を、テニスコートの中の彼らも楽しみにしていた。顔や声に出して騒ぐ者、静かに楽しみにしている者、表情に変化がない者など九者九様ではあるけれど。
 だがしかし、一週間程前の天気予報は曇りで、でも予報が外れるかもしれないという僅かな希望を砕き、その予報は見事に的中してしまった。
 東の空どころか空全体が白い雲に覆われ、太陽が今ある位置さえ全くわからない。
 地面にうっすら影らしきものが見えるような見えないような、といった具合だ。
 雲が風で流れ、雲の切れ間から日食が見られないだろうか。
 ドリンクボトルを回収し中身を補充する作業をしながら、僅かな希望を胸に東の空を見上げた。
先輩っ!!」
 切羽詰った声は二年生レギュラーである海堂のもの。
 空を気にして上を向いていたがはっと我に返り海堂の方を見た瞬間、眼前に黄色いボールが迫っていた。驚愕して避ける間など皆無に等しかった。けれど、不意に彼女の視界が回り、飛んできたボールは彼女の上をすり抜けていき、どこにも当たらなかった。
 はーっ、と安堵する吐息がごく傍で聞こえた。
「不二、くん」
 不二が間一髪で助けてくれたのだとすぐにわかった。
ちゃんの気持ちはわかるけど、余所見してたら危ないよ」
「ごめんなさい」
 いつもの穏やかな微笑みはなく、真摯な顔で諭す不二には頭(こうべ)を下げた。
 そんな二人の周囲にレギュラー達が集まってくる。
!大丈夫か!?」
「うん、大石くん」
 不二が手を貸してくれたので礼を言って立ち上がりながら、は答えた。
「ごめんなさい、みんな。練習を中断させてしまって」
「うん、けど、の気持ちもわかるよ」
「うんうん、俺だって観たいもんねー。ねー、桃、海堂」
 をなぐさめる河村に菊丸は同調した。
「観たいっスよ」
 そう言ったのは桃城。海堂は無言でフンと横を向いたが、それが彼なりの同意だった。
先輩すごい楽しみにしてるっスよね」
「そ、そういう越前くんだって楽しみよねって言ったら、そっスねって言ってたじゃない」
「うっ」
 わいわいと盛り上がる部員たちに手塚は軽く嘆息した。
 みなの気持ちはわからないでもない。だが、こう雲が多く、しかも動いていないのでは観測できそうにない。
 晴れていたのなら、少しの間――金環日食が終わり部分日食に入るまでくらいの間、練習を中断してもいいかと顧問の竜崎に訊いたら許可が下りたので、実行するのだが。
 空模様がこれでは仕方がない、と手塚は口を開いた。
「おい、みんな――」
「ああーっ!」
「太陽じゃん!」
 菊丸と桃城の重なった声が終わるのとほぼ同時に、レギュラー陣はもちろん、朝練中のテニス部員全員が東の空を見上げた。
 首を45度上げたあたり、雲の切れ間に輝くリングが見える。
 先程まで全く動いていなかった雲が不意に流れ始め、太陽のある位置にだけうまい具合にかかっていない。
 偶然に偶然が重なった、奇跡といえる瞬間。
 コートのそこかしこで、歓喜の声や拍手が沸き起こる。
「きれい…」
 金環の美しさにの口から溜息が零れる。
「うん。雲が流れてるから、あの白い雲の後ろになればもっとよく見えそうだ」
 右隣にいる不二の声に、は更にじっと東の空――太陽に月が重なるところに魅入った。
 太陽を観察するには日食グラスを使うこと。
 そのように言われているが、雲があるため直接太陽を見ても眩しくはない。
「きらきら…」
「…すげぇ」
「うん」
 いつのまにか左隣にいた海堂を気にすることなく、彼の小さな呟きには日食を見ながら答えた。
 眩しくなくてもずっと観ているのはよくないのだろうけれど、目を離すのが一瞬たりとも惜しくて離せない。
 許可は不要となったと思った手塚もまた、東の空を見つめていた。彼とて騒いだり観たいと口にしないものの、楽しみにしていた。日食の間中は部員の集中力が欠けるだろうと考えたし、だからこそ竜崎に許可できないかと相談した。相談する中に自分の希望が含まれていないといえば嘘になる。
「日本の広い範囲で金環日食が観測できるのは、平安時代の1050年以来だ。金環日食の時間は最長で約5分間。部分日食は最長で約3時間」
 みんなと同様に観測をしながら、教科書を読むようにスラスラと乾が言った。それはレギュラー全員とマネージャーの耳に届いていたが、みんな観測に夢中で応じる声はない。だが乾は予測していたので落胆などはなく、更に説明を続けた。
「金環食の前後には月面の凹凸でリングの縁が途切れ途切れになるベイリービーズが見える」
「肉眼じゃ無理っスよ」
「太陽が大きく見える日食グラスがあったらよかったね」
 桃城が突っ込み、河村が残念そうに言った。
 東の空を見ていたは少し首が疲れたので視線を下げた。彼女は周囲に目を向け、手塚を確認すると彼の傍へ向かった。
 の足音に気がついた手塚が視線を空から彼女へ滑らせる。
「手塚くん、ごめんなさい。グラウンド何周走ったらいい?」
「走る必要はない」
「えっ?」
「竜崎先生から許可は下りているからな」
 驚いたが口を開くより早く、桃城が声を上げた。
「えーっ!?マジすか、部長」
「だったら早く言ってにゃ」
 不満そうに頬をふくらませる菊丸に、手塚ではなく大石が言った。
「部活の前に言ったら、お前たち集中しないだろう」
「そんなことないにゃ…たぶん」
 困ったように笑う菊丸にはクスッと笑って、手塚を見上げた。
「さすが部長ね。ありがとう」
 二重の意味の礼に気がついた手塚は微かに微笑した。
「いや」
「手塚はちゃんには甘いよね」
「俺もそう思うっス」
 不二と越前が言うと、近くで海堂がぼそっと突っ込みを入れた。
「…全員先輩には甘いんじゃないスか」
「お前も含めてな」
 逆光で眼鏡をキラリと光らせる乾に海堂は舌打ちし、そっぽを向いた。


 雲の隙間に見え隠れする輝く金環が終わるまでしばしの間、言葉もなく東の空を見上げていた。




END



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