一人の夜




 雨が降っている。
 耳を澄ませば雨音が聞こえる程度の静かな雨だ。
 夕方から降り出した雨だが、一向に止む気配がない。
 今は梅雨だから、雨が降りやすいのは仕方がないと言えば仕方がない。
 けれど――。
「何も一人の時に降らなくてもいいじゃない」
 一人ごちて、 は軽い溜息を吐いた。
 雨は昔からあまり好きではない。
 傘を差すのが面倒だとか、服が濡れるからとか、そういう理由ではない。
 雨音が切なくて、ひどく淋しい気持ちになるからだ。
 周助が隣にいてくれるなら、切なく淋しい気持ちにはならないのに。
「早く帰ってきて……なんて無理よね」
 両腕に抱えたクッションに顔を埋める。
 夫の周助は先週からアメリカに遠征に行っている。そして、帰国予定は明後日の夜だ。
 周助と結婚する時、覚悟をしていた筈だった。
 彼がプロテニスプレイヤーである限り、一緒にいられる時間は限られているのだということを。
 いままでも周助の遠征がなかった訳ではないが、梅雨の時期に彼が遠征するのは初めての事だった。
 だからと言って、雨の夜を一人で過ごしたくないという理由で、彼を止めることはできない。
 そんなことは言いたくないし、言うつもりもない。
 だが、気持ちをうまくコントロールできる程、 は強くない。
 渦巻く感情を消せなくて、 はクッションを抱える腕に力をこめた。


 どのくらいそうしていただろう。
 キィという鈍い音が耳に届いたような気がした。
 空耳かと思ったが、ついでカタンという音が耳に届いた。
 聞き間違いじゃない。こんな夜遅くに来客がある筈はないし、来客なら普通はインターフォンを押す。
 だから、玄関の扉が開く音がしたのなら、そこにいるのは。
「ただいま、 。ちょっとトラブルがあってさ、早く帰国――」
「周助っ」
 玄関に迎えに出て来た愛妻に優しい笑みを浮かべた周助に、 は抱きついた。
 まるで周助の体温を確かめるように。
 周助は何も言わず、 の華奢な身体を包むように優しく抱きしめる。
 それからしばらくして。
「おかえりなさい、周助。お疲れさま」
 周助の胸に埋めていた顔を上げて、は微笑んだ。
 それに周助はクスッと笑って、の白い頬に羽のように軽いキスを落とす。
「ただいま。…元気出た?」
 は瞠目して秀麗な顔を見つめた。
 どうしてわかったの?
 私が淋しいって思っていたのを。
 一人の夜がイヤで、早く周助に逢いたいって思っていたことを。
 どうして周助には簡単にわかってしまうのかしら?
のことなら、なんでもわかるよ」
 一言も喋っていないのに、周助はそう言って微笑む。
 それまで沈んでいた気持ちが嘘のように消えていく。
「甘えてばかりで、ごめんね。 もっとしっかりしなくちゃダメよね」
 苦笑いを浮かべて言うと、目元にキスが落とされた。
「それは違うよ。僕が安心して遠征に行けるのは、君が留守を守ってくれるからだ。だから、いまのままの でいて? それにね、どんなに疲れていても、 の顔を見るだけで僕は癒されてる。もそうでしょ?」
 その言葉にコクンと頷くと、周助は幸せそうに微笑んだ。
「こうして君を甘やかすのって、実は好きなんだよ?」
 知ってた?
 そっと耳元で囁いて、驚きに瞳を瞠る を周助は強く抱きしめて。
 柔らかい唇を熱いキスで塞いだ。


 一人の夜は好きじゃない。
 だけど――。
 一人の夜を過ごした後の二人きりの夜は幸せな時間になる。
 そう思うと、一人の夜も嫌いじゃないかもしれない。
「何を考えてるの?」
「え…?」
「僕の腕の中で僕以外のことを考えたらダメだよ」
 掠れた声で熱く囁いて、周助は細い腰を抱き寄せた。
 ぴったりと隙間がないほど身体が密着し、かあっと頬が熱くなる。
…僕のことだけ考えて」
 そうして周助から与えられたネツはとても熱くて。


 一人の夜よりといる夜が僕は好きだよ――


 遠のく意識の中で優しい声が聴こえた。




END



BACK