涙




「不二ー。今日の部活休みになったって聞いた?」
 クラスメイト兼部活仲間の菊丸が帰りのホームルームが始まる少し前、教室に駆け込んで来て言った。
 不二は友人へ視線を向けて、首を横に振る。
「いや、聞いてないよ」
「何かさ先生が出張になったらしくって、部活は休みなんだって」
「先生が出張だなんて珍しいね」
「だろー?そういうの絶対に引き受けなさそうだし。けどさ、久しぶりに放課後ひまになったし、どっか遊びに行こうぜ」
 全身で喜びを表現しながら、菊丸は不二に声をかけた。
 菊丸の提案に不二は暫し考えて、口を開く。
「ごめん、英二。僕ちょっと河原へ行きたいんだ」
「河原?」
「うん。夕方の川辺の風景を一度撮ってみたいんだ」
「ああ、カメラか」
「うん。今日は天気もいいし、いい写真が撮れそうだよ」
「そっか。わかった。 んじゃ、桃とおチビを誘って遊びに行くかな」



 不二はいつもの学校からの帰り道とは違う道を通って、今日の目的の撮影場所である青春台を流れる川の土手へと向かった。
 川沿いの道を歩いていくと、やがて川に架かる橋が見えてきた。
 不二は絶好の撮影ポイントを見つけるべく、芝生の土手を下り川辺へ足を進めた。
 去年の夏合宿の朝に撮った風景と同じポジションがいいな。
 そう考えて、同じアングルで撮れるポイントへ移動しようとした。
 その時、不二の頬に何かが触れた。
 天を仰ぎ見ると、灰色の空から雫が地上に落ちてくるのが見えた。
 雨が降ってきた、と認識した瞬間、雨はバケツの水をひっくり返したように激しく降り出した。
 
どこか身近なところで雨を僅かにでも凌ごうと思い、走り出した。
 だがその時、前方に人影を捕らえて、不二は足を止めた。
 不二がいる場所から数十歩ほど距離を離れた川の縁に、髪の長い一人の女性が立っている。
 その人は雨が土砂降りなのにも関わらず、ただ静かに佇んでいた。
 音を立てるように降りがひどくなってくるが、その人はピクリとも動かない。
 まるでそこだけ時間が止まっているかのようだ。
 降りしきる雨が、不二の全身を濡らしてゆく。
 けれど不二は少しも気にならなかった。
 気になるのは、雨の中、一点を見つめて涙を流している目の前の女性だった。
「風邪を引きますよ?」
 不二は声をかけながら、学ランの上着を女性の肩にかけた。
 ずぶぬれの上着をかけても何の意味もなさないことはわかっていた。
 わかっていたけれど、そうせずにはいられなかった。
 その人から溢れ出ている涙があまりにも切なく見えて、一人にできないと思った。
 不意にかけられた声に細い肩が驚きに震えて、女性はゆっくりと不二に視線を向けた。

「・・・あなたも風邪を引くわよ」
  は 突然かけられた声に驚きつつ言葉を返した。
「大丈夫ですよ。鍛えていますから」
 不二が言うと、 はふふっと微かに笑った。
 けれどその顔はどこか淋しそうで、不二は胸が苦しくなった。
「・・・どうして泣いていたんですか?」
 訊いてはいけないことだと思う。
 けれど、不二は衝動を押さえる事ができなかった。
  は瞳を閉じて、震える唇でゆっくり話し出した。
「・・・・・・すごく好きだったの。とても大切だった。大好きだったのに・・・。ジョンはね、ここの風景がお気に入りだったみたいで・・・散歩に出るといつもここに来たがったわ。・・・とても大切な犬だったの‥‥」

 意気消沈している様子から、犬は死んでしまったのだとわかった。
 それと同時に、彼女が死んでしまった犬を大切にしていたことが痛いほど伝わってくる。
 不二は僅かに色素の薄い瞳を細めた。
「…あなたが泣くとジョンが悲しむよ。もし僕がジョンだったら、大好きなご主人様が泣いているのは見たくない」
  は黒真珠のような瞳を驚きに瞠って、不二を見つめた。
 どこか遠くを見つめているような感じは消えて、焦点がしっかり合っている。
「ジョンが悲しむ?」
「うん。無理に笑えとは言わない。だけど、大好きなご主人様には笑顔が似合うって、きっとそう言うよ」
「……そう、かしら?」
「うん。 僕もあなたには笑顔が似合うと思う。だから、笑って」
 不二はにっこりと に微笑みかけた。
 すると の顔にも先程とは違う笑みが浮かんだ。
「あなたって不思議な人ね。・・・ありがとう。えっと・・・」
「僕は不二周助って言うんだ」
「ありがとう、不二くん。私はよ」
さん。また逢えるかな?…僕と逢ってもらえますか?」
「…ええ、喜んで」
 激しく降っていた雨もいつしか小降りになり、二人を包むように優しく降り注いでいた。





END



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