お願い




 山に太陽が沈みかける頃、放課後の部活が終わった。
 部長から解散の合図のあと、一年生はネットやボ−ルの片付け。そしてコートの整備に向かう。
 二、三年生は水飲み場へ向かったり、あるいは部室へと足を向ける。
「はあ〜。今日も疲れたにや〜」
「俺は腹が減ったっスよ」
 レギュラージャージを脱ぎながら呟いた菊丸の声に、いつものように桃城が答える。
 すると、部室の机で部誌を記入していた大石が呆れたように溜息をついた。
「桃、食べ過ぎなんじゃないか? 練習前も食べてただろ」
「そうなんスけど‥‥また減ったんですよ」
「食い過ぎじゃねえのか?まだでかくなるつもりか?」
「ンだと?もう一回言ってみやが――」
「海堂、桃城。ここをどこだと思っている?」
 低めだがよく通る声が、部室の扉付近から聞こえた。
 名前を呼ばれた二人はそろそろと手塚へ視線を向けた。
「すんません」
 海堂と桃城は揃って頭を下げた。
 ここで言い訳しても、ケンカ両成敗の手塚のことだ。いますぐでなくても、明日の朝練でグラウンドを走らされるかもしれない。ハードな練習の後に走らされるのもきついが、練習前に走るのもきついものがある。
 いつも変わらずに繰り返される光景を苦笑いしながら見ていたり、データを取っていたり、我関せずを決めて黙々と着替えをしていたり、やれやれと頭を抱えていたり、部員たちは様々な反応をしている。
 そんな中、不二は黙々とジャージから制服へ着替えていた。
「あれ?不二、もう着替えたんだ」
 菊丸がワイシャツの袖に腕を通しながら、右隣にいる不二に声をかけた。
「うん、ちょっと急ぐから」
 答えながら、不二は青いテニスバッグを左肩にかける。
「えっ?さっきは何も予定がないって」
 そう言った菊丸に、不二は色素の薄い瞳を向けた。
 いつも穏やかな笑みを浮かべている彼は、すごく真剣な表情をしている。
「うん、さっきまではね。 大事な用事ができたから、先に帰らせてもらうよ」
 有無を言わせない口調に、菊丸は黙って頷いた。
 不二の口調と様子から見て、おそらく彼女絡みであると判断したからだ。
  が絡んだ時の不二は、情け容赦がない。
 それを知りたくて知ったわけではない。けれど、知ってしまった以上は逆らわないようにするのが利口な考えだ。
 だから菊丸は、不二の逆鱗に触れないようにしよう、と心に決めている。
 ちなみに、そう決めているのは菊丸だけでなく、レギュラー陣全員だったりする。
「じゃあ、お先に失礼するよ。お疲れ様」
 そう言って、不二は部室を出た。
 彼が急いでいる理由は、先程見たメールのためだ。
 部活が終わり着替えるために部室へ向かった不二がロッカーを開けた瞬間、携帯が鳴った。
 耳に届いたメロディは、 専用にしてあるものだった。


 

 no title


 逢いたい。



 メールにはたったの一言。
 らしくないと思った。同時に、逢いに行こうと決めた。
 彼女は自分の限界まで人に甘えたり頼ったりしない性格で、最後まで自力でなんとかしようとする人。
 ――もっと我が侭を言っていいよ
 いつだったか、そう言ったことがあった。
 けれど、は顔に笑みを浮かべて。
「今だってじゅうぶん我が侭言ってるわよ、私」
 彼女の我が侭は、不二にとっては我が侭ではない。
 「電話して」とか「お昼はパスタが食べたい」とか「傍にいて」などというものは、我が侭のうちに入らないと不二は思うのだが、はそれが我が侭であると思っているらしい。
 彼女の生まれ育った環境が僅かながら影響しているかもしれないけれど、それが人に甘えるのが苦手だという理由からだと言うのがわかってきたのは、ここ数カ月のことだ。
 だから が不二に甘えてくる時は、すでに限界の状態にある。
 こうなる前に頼って欲しいと思うのだが、不二の重荷になりたくないと思っているは、決してそうしない。
 そのことに気がついてから、不二はなるべく口に出さないようにした。
 その変わり、 が頼ってきた時は甘えさせよう、支えよう、と決めている。

 通い慣れた道を走って、不二は のアパートに着いた。
 太陽は山の影に隠れ、辺りは薄暗くなってきている。
 外から の部屋に明りがついていることを確かめて階段を上がった。
「…周助」
 呼び鈴を鳴らして少し待つとゆっくり扉が開いて、愛しい彼女が姿を見せた。
 僅かに微笑みを見せたに不二は安堵した。
 けれど、黒い瞳は今にも泣き出しそうに揺れている。

 きれいに整えられた部屋に入り、柔らかなクッションに二人並んで座る。
 不二の左肩に が頭を寄せた。
「急にごめんね。大会前だし、部活で疲れているのに」
 自分が辛い時まで他人を気遣う の優しさが不二には辛い。
 彼女は自分より6歳年上の自立した大人だけれど、自分はまだ高校生で社会的地位はない。
 けれど、彼女を想う気持ちは誰にも負けない自信がある。
 今はまだ頼りないかもしれないが、近い将来、彼女を護って幸せにしてみせるという強い想いがある。
「謝らなくていいよ。僕も に逢いたかったから。 それに…」
 言いながら、不二は華奢な身体を腕の中に閉じ込めた。そして、触り心地のいい艶やかな黒髪をしなやかな指先で絡め取るように梳く。
「こうして抱きしめたいって思ってた」
「……抱きしめる…だけ?」
 聞き逃してしまいそうに小さな声が耳に届いた。
 耳まで赤く染めて、僅かに視線を逸らしている。そんながとても愛しい。
 不二は華奢な身体を抱きしめている腕の力を僅かに強めた。
「抱きしめるだけじゃ足りない?」
 フフッと笑いながら訊くと、黒い瞳が覗き込むように睨んできた。
「…意地悪」
 頬を赤く染めて言う に不二は満足そうにクスッと笑う。彼女がたまに見せるこういう表情が、たまらなく可愛い。
 不二は白い頬を優しく包み込むように両手で触れた。
「愛してる、
 切れ長の瞳を細めると、黒い瞳が恥ずかしそうに閉じられた。
 不二は嬉しそうに微笑んで、赤く色付く唇にゆっくり自分のそれを重ねた。
 甘く優しい蕩けるようなキスは、次第に甘く熱いキスへと変化していく。
「しゅう…すけ…」
 唇を離すと、が潤んだ瞳で恋人の名を呼んだ。
 そして、不二の胸に顔を埋める。
「お願いが……あるの」
「なに?」
「あの・・・ね・・・・・・」

 柔らかな唇で紡がれた言葉に、不二は色素の薄い瞳を細めて微笑む。
「僕が言おうと思ってたんだけどな」
  不二はの膝裏に腕を回して細い身体を抱き上げた。
「しゅ、周助?」
「ん?なに?」
「な、なにって・・・んッ」
 言葉を紡ごうとした柔らかい唇をキスで塞ぐ。
 不二は秀麗な顔に、にっこりと笑みを浮かべた。
「泊まっていって、って言ったじゃない。だから、そういう意味にとっていいのかと思ったんだけど?」
「だって、夕食もまだなのに?」
 反論の仕方が可愛い彼女に不二はクスクス笑って、額にキスを落とす。
の作ってくれる夕食も魅力的だけど、僕はが欲しいな」
 耳元で甘く囁かれ、恥ずかしさにの身体が桜色に染まる。
 真っ赤になっているだろう顔を見られるのが恥ずかしくて、は不二の胸に顔を埋めた。
「今日はたっぷり甘やかしてあげるよ、。 滅多に甘えてくれない君のお願いだから…ね」
 不二は を寝室へ運んで、白いシーツの波に華奢な身体を沈めた。
 それから愛しい恋人が疲れて眠りに落ちるまで、細い身体に何度も愛を刻み込んだ。




END



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