八月中旬、一週間の部活の夏合宿から家に帰った僕は、部屋で荷物を片付けていた。
 その時、部屋のドアがノックされた。
「周助、ちょっといい?」
「どうぞ」
 答えると、扉を開けて姉さんが部屋の中へ入ってきた。
「明日は部活が休みだったわよね」
 笑っているけれど何か企むような表情で姉さんが言った。
 それを訝し気に思いながらも頷くと、姉さんは笑みを深くして。
「明日は と約束してるからダメだよ」
 買い物でも頼むんじゃないかと思って、先手を打った。
 すると姉さんは苦笑して。
「そうじゃないわよ。これ、周助にあげようと思ってね」
 言って、姉さんは僕の目の前に長方形の紙を差し出した。
「チケット?」
「ええ。私からのプレゼントよ」
 姉さんがくれたチケットは、二ヶ月前にリニューアルオープンした水族館の入館券だった。
 その水族館で有名なのは海をイメージして作られた大きな水槽で、当時新聞の一面に載っていたのを思い出した。
「ありがとう、姉さん」
「ふふっ。どうしたしまして。 ちゃん、喜ぶといいわね」




 




 水族館の入口を入ると、目の前にはとても大きな水槽があった。
 青い水に太陽の光が差し込んでいて、少し眩しい。
「わあ、すごい」
  は黒い瞳を子供のようにキラキラさせている。
 彼女が感嘆の声を上げるのも無理はない。
 青い海水の中を何千…何万かもしれない。マイワシの群れが目の前を泳いでいる。
「あっ、周くん。見て見て」
 言いながら、 が僕の服の袖をクイッと引っ張った。
「どうしたの?」
 そう訊くと、 は白く細い指で水槽の一点を差して。
「あのコ小さくて可愛いの。生まれたばかりかな?」
 見ると、目の前を通過していく群れの最後尾に小さなマイワシが泳いでいた。
 それは他のマイワシの半分くらいの大きさにも満たないほど小さかった。
「そうなんじゃないかな。隣に泳いでいるのは母親かもしれないね」
「うん」
 そんな話をしながら、僕たちはしばらくの間、マイワシの大群が泳ぐ光景を堪能した。
 そして、次のフロアに向かった。


 深海魚が泳ぐフロアを通過し、波間に漂うクラゲを見た頃には、昼を過ぎていた。
 この水族館はかなり広く、入口で渡された館内マップを見ると、 の好きな生物がいるフロアに着くにはまだ時間がかかりそうだった。
、そろそろお昼にしようか」
「もうそんな時間なの?あっという間ね」
「クスッ。そうだね。 向こうに海の見えるレストランがあるみたいだから、行ってみようか」
 そう提案すると、 は笑顔で頷いた。
「うん。晴れてるから、きっと海がキレイに見えるわね」
 僕たちはレストランの中でも一番海がよく見える席に案内された。
 そして、大きな窓から海を一望できる席で砂浜に打ち付ける波、太陽の光に輝く青い海を見ながら、楽しい昼食の時間を過ごした。


 日本海をイメージして作られたというフロアを見て、少し歩くと今日のメインとも呼ぶべき場所へ着いた。
 この水族館の目玉は一日に二回行われるイルカショーだけど、ここはイルカショーをしている場所ではない。 の好きな生物がいる所だ。
 氷の上を頼り無く歩く姿が愛らしい。
 隣にいる は、ここに来てからペンギンしか瞳に映っていないみたいだ。
 それが面白くないけど、彼女の横顔はとても嬉しそうで、邪魔をするのは気が引けた。
「きゃ〜、可愛い〜〜〜」
 可愛い声を出して、「周くん、あれ見て」と僕を呼んだ。
「左の方にいるペンギンの足元見て?」
「うん?」
 言われるままに が言う方を見ると、3羽ペンギンが集まっていて、そのうちの1羽の足元に、淡いグレイの色をしたペンギンがいた。
 赤ちゃんペンギンだと言うことが一目見て分かる。
 親を下から見上げるようにして、口をパクパクさせて鳴き声を上げている。
「小さくてフワフワしてて…すっごく可愛い。 ね、周くんもそう思うでしょ?」
 にこにこした笑顔で僕を見上げて が言った。
 確かに赤ちゃんペンギンは可愛い。
 でも、僕はペンギンよりも――
の方が何倍も可愛いよ」
 そう言うと、白い頬が仄かに赤く染まった。
「や、やだ。周くんてば・・・。私のことじゃなくて、ペンギンのこと言ってるのに」
「それは分かってるよ。ペンギンは確かに可愛い。でもね・・・」

 それを見てる の方が何倍も愛しくて、何倍も可愛いよ

 耳元で囁くと、 は耳まで真っ赤に染めて俯いてしまった。
 その姿が可愛くて、我慢できずに華奢な身体を抱きしめた。
「ちょ……っ…しゅうく…っ」
「なあに?」
「は、恥ずかしいから離して」
「クスッ。イヤって言ったら?」
「や、周くんっ」
 本気で恥ずかしがって僕の腕から抜け出そうと がもがく。
 拘束する力を弱めると、勢いよく僕から身体を離した。
「…っ」
  が潤んだ瞳で僕を睨む。
 ちょっとイジメすぎたかな?
 でも、 が悪いんだよ。
 ペンギンばかり見ていて僕を見てくれないから。
「ごめん、
「・・・・」
「どうしたら許してくれる?」
 訊くと、 は僕の傍に寄って。
「・・・本気で怒ってない。でも、人前でしちゃヤダ」
 参ったな。
 上目遣いでそんなに可愛く言われたら、聞かないわけにはいかないじゃない。
「わかった。抱きしめたりキスしないようにするから」
 なるべく…ね。
 100%保証はできないから、心の中で付け加える。
「ねえ、 。君を抱きしめたのはペンギンじゃなくて、僕を見て欲しいからだったんだよ?」
 言うと、 の黒い瞳が一瞬だけど驚いたように見開いた。
「ペンギンにヤキモチ妬いてたの?」
 言って、 はくすっと笑った。
 そして黒い瞳で僕をまっすぐに見つめて。
「私が一番好きなのは周くんよ。だから、安心してね」
 にっこりと笑う はやっぱりとても可愛くて。
 さっきの約束は守れそうにないと思った。
 でも、人前じゃなければ…ね。
「僕も が一番好きだよ」
 笑いかけると、 は嬉しそうに微笑んだ。
「ね、周くん。次はイルカを見に行かない?」
「クスッ。うん、行こうか」
 怒りが持続しない所も可愛いなと思いながら、僕は の細い手を取って返事をした。


「あ、そうだ」
「どうしたの?周くん」
 きょとんと首を傾けて訊く の耳元に、そっと顔を近付けて。
「今夜は覚悟してね?」
「え?」
「さっき僕を見てくれなかったから、ね」
 目の前では水族館の目玉であるイルカショーをやっている最中だ。
 はイルカに夢中で、また妬いてしまって彼女の意識を僕に向けさせた。
 ――じゃあ、イルカとキスする人はこちらへ来てください
 会場に飼育員の声がに響くと、の意識はまたステージに向いてしまう。
「私もイルカにキスしてみたいなあ」
「クスッ。 には僕がいるでしょ?」
 素早く彼女の柔らかい唇を掠め取った。
「しゅ、周くんっ!」
「ほら、あっちを見てないと見逃すよ?」
 そう言った瞬間、イルカが小さな女の子の頬にキスをしていた。




END



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