保健室




 六月上旬の放課後。
 体育館のステージ上では、演劇部の部員が発声練習をしていた。
 すると、そこへ騒がしい音が近付いてきた。
 そして、体育館の扉が大きな音を立て開かれた。
「たいへんだーーーっ!!」
 扉が開かれたと同時に、体育館に響いた大声に、パス練習をしていたバスケ部員、素振りをしていた剣道部員、そして演劇部員の視線がそこへ注がれる。
 そこに立っていたのは、テニスラケットを握りしめバーニング状態になっている河村と、額に汗を浮かべて必死な形相の桃城、そして、見るからにパニックしているとしか思えない表情の大石だった。
 そのメンバーを見るなり、 は自分の隣で唖然としている親友の肩をポンと叩いた。
「頑張って、
「なんで?」 
 思わずそう返すと、は軽くため息をついた。

「テニス部のメンバーがここに来たってことは、目的はよ。たぶんね」
 の恋人は生徒会長の手塚国光で、テニス部に所属している。
 だから、もしかしたらあの三人の目的は自分かもしれないのだが、の方が可能性として高い。

「不二君が暴走してるんじゃないの?」
、周くんは暴走なんてしないわよ」
 親友を軽く睨んでそう言うと、は小さく舌を覗かせた。
「ごめん。冗談よ、冗談」
 二人がそんなやり取りをしている間に、テニス部の三人はステージのそでに来ていた。
 三人は との彼我を縮め、たたみかけるように口を開く。
さん、大変なんだ。不二――」
「そうなんスよ! 先輩。実は不二先――」
「ショッキーーング!乾汁で――」

 大きな声で、しかも三人が一斉に話しだしたため、言われている にはさっぱり聞き取れなかった。
 彼女は困ったように笑って。
「三人とも、落ち着いて話して。何を言ってるかわからないわ。周くんがどうかしたの?大石君」
 は一番冷静なことを言ってくれそうな人物に話を振った。もっとも三人のこの状態では、誰に訊いても同じだと思うが。
「実はさっき不二が倒れて、今保健室にいるんだ」
「たっ、倒れた?本当なの?!」
 確認するように言うと、三人は一斉に頷いた。
 それを見るなり はステージから飛び下りて駆け出した。
 彼女が向かう先は、東館にある保健室だ。

 周くん…!
 普段は走ることなどしない廊下を全力で駆け抜け、階段を降りて――。
 目の前の白い扉をガラッと勢いよく開けた。
  は気が急いていて、ここは保健室であることが頭からさっぱり消えていた。
「しゅ、周くんは…」
 弾む息を押さえてそう言うと、ベッドに横たわる不二に付き添っていた手塚がイスから立ち上がった。
「早かったな。走ってきたのか」
「ごめんなさい。周くんが心配で」
 廊下を走ってしまったことを詫びると、手塚は微かにフッと笑って。

「気にするな。今日ばかりは仕方なかろう」
「ありがとう、手塚君」

「いや。それより、不二に付いててやってくれ。俺が傍にいるよりお前がいる方がいいだろう。それに部を放っておくわけにもいかん」
「うん」

 頷くと手塚は「後は頼む」と言い残し、保健室を出ていった。
 手塚が保健室から去ると、 は先程まで手塚が座っていた丸イスに腰掛けた。
 瞳を閉じている不二の顔を覗き込んだ。
 手を伸ばして、サラリとした茶色い前髪をそっと梳く。
 そうして恋人に触れながら、 はあることに気が付いた。
 あれ?周くんがどうして倒れたのか、聞いてなかった。
 倒れたということに気を取られ、どうして倒れたのかを聞いていなかった。
 今更ながらそれに気付いた は、自分の愚かさにため息をついた。

「周くん…」
 彼の名前を呼ぶと、かすかに瞼が動いた。
 じっと息を詰めて見つめていると、閉じられていた瞼がゆっくり開かれ、色素の薄い瞳が の姿を捕えた。

「気がついた?」
「… …どうして君がいるの?」

「部活してたらね、大石君たちが私を呼びにきたの」
「そうか・・・」
 そう言いながら、不二は身体をベッドの上に起こした。
「無理しないで。もう少し横になってたほうがいいわ」
 心配そうに眉を曇らせる彼女に、不二は首を横に振る。
「大丈夫だよ。ケガをしたわけじゃないしね」
「えっ?」
「えっ…って、理由を聞いてないの?」
「慌ててたから、聞くのを忘れてて」

 申し訳なさそうに言った彼女に、不二はクスッと笑う。
らしいね。 心配かけてごめんね?」
 その言葉に、 は首を横に振った。
「ケガじゃなくて安心したわ。でも、どうして倒れたの?」
「実はね、乾が作った【新作乾汁】をタカさんに飲まされてね」
 どういう手段を使って乾が河村を丸め込んだのかはわからないが、乾は新作野菜汁の効果を試したくて、不二がそれを飲むように仕向けたらしい。
 当然ながら河村は乾から渡されたものが【青酢改良型】であることを知っていたはずなのだが。
 ともかく、河村から乾汁を渡された不二は疑うことなく、知らずにそれを飲んでしまったのだった。
 一見お茶にしか見えなかったので、口にするまでわからなかったらしい。
 そして酢が苦手な不二は、一口飲んで倒れた。

「あれは本当にまずかったよ」
 恋人に醜態を見せたのが恥ずかしいのか、不二は苦笑してみせた。

「それなら、口直しにお茶を買ってくるわね」
 イスから立ち上がろうとする を不二は細い腕を捕まえて阻止すると、そのまま自分の方へ引き寄せた。
 はバランスを崩し、不二の腕の中に倒れ込む。

「口直しはお茶より…」
 のキスがいいな
 そう囁いて、細い身体を柔らかな白い海に沈めて、桜色の唇にキスを落とした。




END



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