天才




 ヒーターをつけ暖かくなっている部屋の中央にあるロッキングチェアに座り、今日発売したばかりのテニス雑誌を読んでいると、静かな室内に電子音が響いた。
 勉強机の上で音を立てている携帯電話を手に取り、光っているディスプレイを見ると、と表示されていた。
 不二は優しい笑みを浮かべて、通話ボタンを押し電話に出た。
『周助?私…よ』
「どうしたの?めずらしいね、こんな時間に」
 時刻は夜10時をまわったばかりだが、不二の恋人は仕事が朝早いのと、テニス部の朝練のある不二の事を気遣って今のような時刻に電話をしてくることは滅多にない。
『あのね、今度の日曜…明後日、何か予定ある?』
「明後日?」
 不二は壁に掛けてあるカレンダーに目を遣った。
 明後日は日曜日だがテニス部の練習は休みで、特にこれといった予定も入っていない。
「空いてるけど、どうかしたの?」
 かなりの確率でデートの誘いだろうということをわかっていて、不二はわざとそう訊ねる。
 自分から誘うのは珍しいことではないけれど、彼女からの誘いは滅多にない。だからつい彼女の方から言って欲しくて、意地悪をしたくなる。そんな不二の策には微塵も気がついていない。
『あのね、一緒にスケート行かない?』
「スケート?」
 意外な場所への誘いに、不二は僅かに瞳を瞠る。
『うん。職場の友達がスケートリンクの件をくれたの。でも、彼女はスケートができないらしくて。彼女も人から貰ったらしいけど、無駄にするのはもったいないからって私にくれたの。どうかな?』
「もちろん行くよ。僕がの誘いを断る訳ないでしょ」
 そう返事をすると、彼女からは沈黙が返ってきた。
 電話の向こうで顔を赤く染めて照れているのだろう恋人のことを想って、思わずクスッと笑みがもれる。
「何時に行く?」
『え? そうね…午後1時くらいかな』
「了解。じゃあ1時に迎えに行くから」
『わかったわ。待ってる』
「じゃあ、明後日」
「うん。おやすみなさい、周助』
「おやすみ、


 そして約束の日曜日。
 は家に迎えに来てくれた恋人と一緒に、青春台駅の隣駅にあるスケートリンクに来ていた。
 受付でスケート靴を借り、リンクへと向かう。
「ねえ、
「なに?」
「スケートできるの?」
 もしが滑れないのなら、手を繋いで一緒に…。
 そんな淡い期待を抱いて不二が訊いた。
「たぶん」
「たぶん?」
「スケートするのって5年振り位だから」
 は答えながら、スケート靴の紐を結ぶ。
 不二はすでにスケート靴を履き終わっていて、を待っていた。
 不二は彼女より先にリンクへ降りた。足下からひんやりとした空気を感じる。
、掴まって」
 手を差し出す不二に、は横に緩く首を振る。
「大丈夫よ。ちゃんと滑れるってば。こうみえてもけっこう滑れるのよ?」
 確かに恋人としての贔屓を差し引いて客観的に見ても、は運動神経がいい。
 それに彼女は嘘がつけない性格だから、嘘をついている可能性はない。
 けれど5年振りに滑るとなれば話は別だ。
「何言ってるの。5年振りに滑るんでしょ。転んだら危ないんだから、ちゃんと掴まって」
 断ることを許さないかのように、色素の薄い瞳を見開いて言う恋人に逆らうことはできず、は差し出された手に掴まった。
 周助って実はちょっと過保護?
 そんなことを考えながら、リンクへ降りた瞬間。ツルッと足が滑った。
「きゃっ!」
 倒れそうになって、咄嗟に見た目とは違って意外にしっかりしている不二の身体にはしがみついた。
 はっとして顔を上げると、そこには笑いを堪えた恋人の顔があった。
 ばつが悪くなり、の白い頬に朱がさす。大丈夫と言った矢先にこの始末では、笑われても文句を言えない。
 過保護だなんて思ったから、罰が当たったのかもしれない。
「クスクス。手を離したら危なそうだね」
「へ、平気よ。たまたま滑っただけだしっ…」
 情けないというか、格好悪いというか、ちょっと恥ずかしい。
 は断ったが、不二が納得するはずない。
「ダメだよ。ケガでもしたら大変だろ」
「……」
 危うく転びそうになっていたので、否定はできなかった。
 その結果、は不二と手を繋いで滑ることになってしまった。まさか社会人になってまで手を繋いでスケートするはめになるとは思いもよらなかった。
 滑り始めてから20分程過ぎた頃。はすっかり昔の感覚を取り戻していた。昔取った杵柄というやつだ。
 感覚を取り戻せば、不二の助けは不要だ。
「ねえ、周助」
  が自分と手を繋いで滑る不二に声をかけると、彼は目線で問いかけてきた。
「そろそろ……」
 一人で滑れるわ、と言おうとしたのだが、不二によって遮られた。
「一人で滑ってもつまらないでしょ? 、けっこう滑れるみたいだし、せっかくだからペアで滑ろうよ」
「は?」
 訳がわからずにいると、の細い身体がフワリと宙に浮いた。不二が滑りながら彼女の身体を担ぎ上げたのだ。
 こっ、これってリフト〜〜っ!?
 驚いて声のでないと対照的に、不二は楽しそうに滑っている。
「しゅ、周助っ」
「ん?」
「お、下ろしてっ!っていうか、下りる!」
 下ろさなければ自力で下りる。そう瞳で訴えると、身体はあっさりと解放されたかに見えた。
 不二は氷上にを下ろすやいなや、細い腰を抱き寄せスピンを始めた。
 が乗り気でないとはいえ、氷上で華麗に舞っている二人を他人が見れば、ペアスケートをやっているようにしか映らない。しかも、不二のスケートテクニックは天才的だった。
 スケートをしている所はまるで氷上のプリンスのようで、リンクにいる人々の目を釘付けにしている。
 周助ってテニスも上手いけど、スケートも上手いのね。
 そんなの考えが読めているのか、不二はフフッと微笑む。
「惚れ直した?」
「ばか。何言ってるのよ」
「クスッ。素直じゃないなぁ。そういう恋人には…」
 クルクル滑りながら不二は恋人の頭を引き寄せて、オレンジのルージュが引かれている唇にキスをする。
「お仕置き、もっとしようか?」
 意地悪い笑みを浮かべてそう訊く恋人に、は真っ赤な顔で素直に言った。
「惚れ直したけど…私はテニスしてる天才・不二周助のほうが好き」
 言い終えて、不二から視線を逸らそうとしたが、それはできなかった。
「それは光栄だね」
 にっこり微笑んだ不二には再びキスされていた。




END

2004年 寒中見舞いフリー夢/再録

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