ハニー




 青学テニス部が全国優勝を決めて4日が過ぎた。
 三年生部員は全国優勝をしたと同時に部を引退した。
 引退したと言っても、後輩たちの成長振りは気になるし、大学受験の息抜などで、ちょくちょく部活に顔を出すことになるのだが。


 真っ青な空がどこまでも続いている。
 その空の下には深い蒼をした海が、静かな波音を立て広がっている。
「わあ‥‥キレイな所ね」
 潮の香りのする風を感じるように手を広げて、 は深呼吸した。
 新鮮な空気が心地いい。
「クスッ。気に入った?」
  は隣に立つ恋人を見上げて、小さく頷いた。
 海から陸へ向かって吹いてくる風に の長く艶やかな黒髪が舞う。
 それを白く細い指でそっと押さえて、 は嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんよ。とても静かだし‥‥こんなところに来たのは生まれて初めてよ」
 車道からはかなりの距離があるため、エンジン音は一切聴こえない。
 それどころか、この辺り一帯は私有地なので、持ち主以外は立ち入り禁止だ。
 つまり、プライベートビーチになっている。ゆえに、二人以外に人影はない。
 だから、静かなのは当然だった。
「そんなに喜んでもらえると僕も嬉しいよ」
 そう言って、不二はにっこりと優しい笑顔を浮かべた。
 荷物を持っていない左手で細い手を取る。
「荷物、置きに行こう」
「うん」
 そっと手を引く不二に頷いて、別荘へと向かう。
 二人が泊まることになっている別荘は、浜から歩いて5分程の場所にある。
「‥‥周助」
「ん?どうかした?」
 玄関の扉を開きながら、不二は振り返った。
 色素の薄い瞳に、困惑した表情の恋人が映る。
「本当にここに泊まるの?」
 そう訊いてくる の真意が手に取るように解る不二は、クスッと微笑んだ。
 小高い丘の上に建つ別荘からは、遙か遠くまで蒼い海が見渡せる。
 榛色のオーク材で作られた建物は、二人で過ごすには大きい二階建て。
 こんな豪華な所に泊まっていいのか、とまどっているのだ。
「うん、そうだよ。  が旅行するなら海がいいなって言ったんじゃない」
「それはそうなんだけど‥‥」
 確かに言ったのは自分。
 全国大会が終わった、その日。
 表彰式が終わった後、仕事の休みを取って試合を応援しに来ていた のもとへ来た不二が訊いた。
、4日後の…木曜日から三日間、休みが取れたんでしょ?二人で旅行に行こうよ」
 首から下げた金色の優勝メダルを揺らしながら、不二が微笑む。
 優勝した恋人に「おめでとう」と言って、「ありがとう」と返ってきた。
 その直後の言葉が旅行の誘いだった。
 突然のことに呆気に取られていると、不二の鍛えられた腕が伸びてきた。
 しなやかな長い指で の手触りのいい前髪をサラッと梳きながら、彼が顔を覗き込んでくる。
「僕の話、聴いてる?」
 至近距離で言われて、 は慌てて頷いた。
「聴いてるわ」
「どこか行きたい場所ある?」
 もう一度訊かれて、 は考えるように首を傾けた。
 デートをしたい場所なら思い付くのだが、旅行となると急には答えられない。
 せっかく二人きりででかけるのだから、楽しめる場所がいい。
 もっとも、不二が隣にいてくれるなら はそれだけで嬉しい。
 けれど、それを言ったが最後、恋人の熱い視線に絡め取られてしまうのがわかっているから、口にはしない。
「海に行きたいな。今年はまだ行ってないから」
 二週間前に買い物へ出掛けた時、可愛い水着を見つけて思わず衝動買いしてしまった。
 海に行く予定など全くなかったのだが、一目見て気に入ってしまったから。
 勿論、その水着を着たいからというのが理由ではない。
 ただ単純に、不二と二人で海で遊びたいのだ。まだ海でデートをしたことがないから。
 旅行なら遠出できるし、浜辺から沈む夕陽を見るというテレビドラマのワンシーンのようなこともできそうだ。
「海か‥‥」
「ダメ?」
 柳眉を顰めた不二を は首を傾けて見上げた。
 どうして不二が難しそうな顔をしているのかがわからない。
が行きたいなら、海にしよう」
 しばらく待っていると、そう答えが返ってきた。
 不二は先程までの難しい顔はどこへやら、嬉しそうに笑っている。
 それに安心して はホッとした表情で微笑んだ。
「嬉しい。ありがとう、周助」
「クスッ。じゃあ、行き先と泊まる所は僕に任せてね」
 その言葉にハッと気が付く。
 今は夏休みだ。しかも、旅行に行くのは4日後。
 とても無謀なことを言ってしまった。
 行き先はいいとして、泊まる所があるだろうか?
「心配しなくていいよ、 。言ったでしょ?僕に任せてって」
  が考えそうなことに不二が気がつかない筈はないのだ。
 けれど彼女はそんなことには全く気付かずに、驚きに瞠目している。
 不二はフフッと不敵に微笑むと、 の白い頬にキスを落として。
「当日は迎えに行くから、準備して待ってて」

 そうして今に至る。

、どの部屋にする?」
 周囲に首を巡らせて部屋の中を見ている恋人に、不二は愛し気な笑みを浮かべながら訊いた。
  の黒曜のような瞳が不二を捕らえる。
「どの部屋って言われても‥‥」
 通常の別荘なら、ゲストルームは多くても3部屋程度だろう。
 けれどここは二階建ての別荘で、バルコニーまでついているようだった。
 今いるリビングとキッチンが繋がっている部屋から見えるだけでも、扉の数は5つ。
「ダブルベッドがあるのは、一階の一番奥と二階のバルコニーがある部屋なんだ」
 迷っている に気付いた不二は、ニコニコと笑みを浮かべて言った。
 言葉の中に、二人部屋を使おうと言っているのがありありと含まれている。
 でも、そういったことに少しばかり鈍い恋人には通じていないことは明らかだった。
 無論、不二はそれを承知の上で言っているのだが。
「他の部屋は?」
 部屋の説明をしてくれた不二に訊くと、恋人はフフッと微笑んで。
  の艶やかな黒髪をしなやかな指先に絡めて、切れ長の瞳をそっと細めた。
「恋人なんだから別々の部屋を使う必要ないでしょ。  はどっちがいい?」
 じっと見つめられて、有無を言わせない口調で言われたら反論できない。
 恋人と肌を重ねるのが初めてなわけではないけれど、直球で言われると恥ずかしい。
  は真っ赤に染まっている自分を自覚しながら、言葉を紡いだ。
「ゆ…夕陽がキレイに見える方がいい」
 答えると、不二は の目元にキス落とした。
「それなら一階の部屋がいいかな。窓が大きいから、きっとよく見えるよ」
 部屋に入ると、視界に蒼い海が飛び込んできた。
 蒼い海は、ユラユラと太陽の光を反射して輝いている。
「わあ‥‥」
 感嘆の声を上げて、 は窓際へ近付いた。
 荷物を置くことを忘れて嬉しそうに海を眺める に、不二は優しい笑みを浮かべて。
 床に荷物を降ろすと、細い身体を背後から腕の中に閉じ込めた。
「フフッ、お気に召してくれたみたいだね」
「まるで夢の中にいるみたい」
 そう言った恋人にクスッと笑って、不二は白い首筋に唇を落として強く吸い上げた。
 一瞬にして、雪のように白い肌に赤い花が咲く。
「しゅ、周助?」
「夢じゃないでしょ?」
 頬を真っ赤に染めて慌てる に、不二は色素の薄い瞳を僅かに細め言った。
 かあっと身体中が火照り始めて、 は恥ずかしさに俯いた。
「痕つけないで…水着が着れなくなるでしょ」
 俯いてしまった に不二は愉しそうに笑う。
「クスッ。ねえ、 。まだわからない?」
 その言葉に は眉を顰めて、恋人の秀麗な顔を訝し気に見上げた。
 すると不二は細い身体を抱きしめている腕の力を僅かに強めて。
「プライベートビーチにしたのは、 の肌を僕以外の男に見せたくないからなんだよ?」
「え?」
「ここなら僕が を独り占めできる。それに‥‥」

  に僕のものだってシルシをつけても僕しかいないから、安心して水着になれるでしょ?

 熱く掠れた声で囁かれて、体温が一気に上昇する。
 どうしてこういうことを照れもしないで口にできるのかしら、と は 心の中で呟く。
「じゃあ、日が暮れる前に海に行こうか」
  の心境を判っているのかいないのか、不二は判断をつけられない声色で言った。
 上目遣いでチラリと恋人の顔を覗き見ると、彼はにっこり微笑んでいた。
「私で遊ぶのはやめてよ」
 小さな声だったが、それはしっかり不二の耳に届いていて。
 不二は口元を僅かに引き上げて、フッと笑った。
「からかっているつもりはないよ。ただ、 の反応が可愛いからつい…ね」
「どう違うの」
 頬をぷくっと膨らませて反論する。
  は不二を睨んでいるつもりだが、上目遣いで睨んでも効果はない。
 不二は笑顔でそれを黙殺した。
「僕は別の部屋で着替えるから、 はこの部屋で着替えて。リビングにいるから用意ができたら声かけてね」
  不二は の柔らかな唇に触れるだけの優しいキスを落とし、鞄を持って部屋を出ていった。
「……海にしたのは失敗だったかしら」
 パタンと音がして閉まった扉を見つめて、 はひとりごちた。
 細い指で微かに熱さの残る箇所にそっと触れる。
 首につけられた赤い花。夜になったらもっと――。
  は自分の考えにボッと顔を赤らめて、それを打ち消すように頭を振った。
 鞄から一度も着ていない水色と白のチェックのビキニを出して、それに着替えた。
 そしてパレオを腰に巻いて、長く艶やかな黒髪を結い上げ、不二が待つリビングへと向かった。
「やっぱりプライベートビーチにして正解だったね」
 水色のタオルを手にして立っている恋人を見て、不二がにっこり微笑む。
  の水着姿はとてもキレイで、人の多い海辺で一人いたならすぐにナンパされてしまいそうなほど。
 悩殺という言葉が一番近いだろうか。
 色素の薄い瞳を細めて見つめてくる不二の視線の意味がわからずに、 は 不思議そうに首を傾ける。
 そんな彼女に不二は僅かに苦笑して、細い指先に長い指を優しく絡めた。
「わからなくていいよ。君は君のまま、僕の隣で笑っていて」

 こういう鈍いところも、喜怒哀楽がはっきり顔に出るところも、 の全てが愛しいから。
 今の君のまま変わらないで。
 ずっと僕の隣で可愛い笑顔を見せてね、


「気持ちいいー。周助、早くー」
 波打ち際で海水の心地いい冷たさを足に感じながら、 は不二に白く細い手を振る。
 その仕種を色素の薄い瞳を細めて愛おしそうに見つめて、不二は微笑んだ。
、急に水に入ったらダメだよ。危ないじゃない」
 小さなこどもに言い聞かせるように言って、細い腕を引いて自分の方へ引き寄せた。
 すると は小さく吹き出して微笑んだ。
「先生みたいよ、周助」
 くすくす笑う恋人につられて、自然に笑みが溢れる。
 こういうところが年上とは思えないほど可愛いんだよね、と不二は改めて思った。
、泳ぎたいんでしょ?だったら準備運動くらいはしないとね」
 何かあっても困るので、不二の言うことはもっともだと思う。
 だから は素直に頷いた。
 浜辺で太陽の熱を感じながら軽く準備運動をして。
 身体を解した二人は、海の中へ足を進めた。
「気持ちいいね」
 手を繋いで海の中を歩きながら、隣にいる彼女に声をかけた。
「うん。ここ数年は海に来てなかったから、なんか懐かしい感じかも」
「フフッ。海に還るって感じ?」
  は黒曜のような瞳を瞠って、ついで花が咲くようにふわっと笑った。
「そんな感じかな」
 そんな会話をしながら、ある程度の深さがある所まで行って。
 しばらくの間ゆっくり泳ぎを楽しんだ。
 それから休息を取るために浜辺へ上がって、蒼い海と青い空のコントラストに魅入った。
「…・・・海はキレイだし、静かだし‥‥なんだか楽園にいるみたいね」
  は潮の香りを乗せた風を楽しむように、黒い瞳をそっと閉じた。
 耳に心地いい潮騒が響く。
「そうだね。こんなにキレイな景色の中で を独り占めできて嬉しいよ」
 不二が耳元で囁くと、細い身体が驚いたように跳ねた。
 それが可愛くて不二はクスッと笑って、細い身体を抱き寄せた。
「愛してるよ」
 その言葉に黒い瞳が恥ずかしそうに静かに閉じられてゆく。
 不二は僅かに桜色に染まった頬を両手で優しく包んで。
 赤く色付く柔らかな唇に、甘くて熱いキスを何度も落とした。


 その夜。
 白い胸元に幾つもの赤い花を咲かせられたは、不二の腕に抱かれて眠っていた。




END



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